『日本書紀』に出てくる乙巳の変が、藤原氏の汚点である長屋王の変を正当化し、先祖の鎌足を貢献を強調したことになっています。大化の改新で評を郡にして、不比等の大宝律令の功績を示したのも藤原仲麻呂と考えると、ほかにも関与があると思われます。神功皇后にも疑いを持ちます。『日本書紀』は天皇の歴史を示しています。しかし、神功皇后は天皇ではありません。疑いの目で見ると、皇后の歴史を示すのは変です。つまり後から造作されたように思えてきます。今まで時系列で考えていて、持統天皇天皇がモデルととしてましたが、藤原仲麻呂の関与を考えると、光明皇后がモデルになります。当時では聖武天皇の摂政的な役割を光明皇后が果たしていたと考えて良い気がしてきます。
ウィキペディアでは
神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇死去から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。
以下に、実在したとすればと続きますが、まったく信用できません(八世紀の実在と考えると)。
神功皇后の事績として、三韓征伐があります。
三韓征伐(さんかんせいばつ)は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后が、仲哀天皇の没後新羅に出兵し、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたとする日本における伝承である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。(ウィキペディア、三韓征伐より)
藤原仲麻呂も新羅と関係があります。新羅征討計画で、大がかりな新羅征伐の準備をはじめさせています。これなど、願望的なものとして、神功皇后の事績に取り込まれています。
神功皇后には近江の話が出てきます。仲麻呂も逃亡の最後は近江です。藤原氏とつながりがあるのも偶然ではなく、いろいろつながる話が多いように思えます。
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