2023年2月23日木曜日

神功皇后と住吉大社

 住吉大社の祭神は、

現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) (ウィキペディア

ですが、もともとの主祭神の住吉三神に神功皇后が加わったようです。

社殿の配置からみると、神功皇后のみ別と感じます。 以下に配置図があります。

住吉大社 

住吉大社2 

第四本宮がいつのころか不明でしたが、神功皇后が藤原仲麻呂によって創世されたと考えれば、律令体制の初期に神社が整備されていき、仲麻呂の時代に追加されたことでつじつまが合ってきます。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか[1][10]、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈歌[原 8]には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている(後掲)[1][10]。また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』[原 9]では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』[原 10]では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える[10]。また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。(ウィキペディア

住吉大社反り橋西詰め北万葉歌碑があり、藤原仲麻呂の歌があるように思いましたが、勘違いでした。丹治真人土作 巻十九でした。これは[歌番号]19/4243で、ひとつ前の[歌番号]19/4242が、藤原仲麻呂で、あとの[歌番号]19/4244が藤原清河となっていて、遣唐使、餞別の宴席での歌のようです。直接の関連はありませんが、藤原氏と遣唐使のつながりを感じます。

以前に栄山寺八角堂のことを書いてました。(興福寺と栄山寺の八角堂)ここは、藤原武智麻呂の没後、子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝えるものですが、吉野川沿いにあります。変なところにあるなと思ってましたが、吉野川を下ると紀ノ川になり、海岸沿いを伝っていくと住吉社に至ります。藤原氏は遣唐使の道中に立ち寄る場所として便利なところに置いたのかもしれません。

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