2023年2月9日木曜日

長屋王の変もろもろ

 長屋王の変は、今ではめちゃめちゃだと思いますが、当時の人も大事件と思っていたかもしれないということです。この事件の首謀者は藤原氏であったと考えられますが、最終的には聖武天皇の決断であったと思われます。そうでなければ藤原氏の処分とかすれば良いわけで、聖武天皇の意思であったと理解されます。とにかく、この事件は大きい影響をもたらしたような気がしてきました。聖武天皇の大失敗とするといろいろの事が説明できます。変に関わった藤原武智麻呂の子の仲麻呂は、藤原氏が主導したという汚名返上に、父の鞭麻呂にも聖徳太子の法隆寺の夢殿につながる不比等の八角の興福寺北円堂と同じタイプの八角堂を建立し、正統性を強調します。また『日本書紀』を改竄し、乙巳の変を作り出し、過去にも政変があったとします(今のところ、私の個人的な見解です)。 聖武天皇も危機感を持ったと思います。天武天皇が亡くなった後の後継者争いで大津皇子が排除されます。そして対抗馬の草壁皇子も若くして亡くなります。死因は不明ですが、大津皇子支持の勢力によって仕返しを受け暗殺されたのではとおもいます(これも個人的見解)。このことがあって、聖武天皇の東国彷徨につながります。東国と言っても、そのコースは壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)のコースに似ています。聖武天皇や光明皇后の東大寺など仏教にのめり込むのも贖罪の意識があったためとも思われます。 正倉院展(第66回)で展示された仕込杖も暗殺をおそれていた遺品と思います(当時は儀礼的な刀を身につけていたのかもしれませんが)。 長屋王の変に対して、藤原氏の中でも、とらえ方に温度差があったと思います。長屋王の変に関与した藤原宇合も、そこまでとは思ってなかった可能性があります。宇合の子の藤原広嗣も、乱も起こし玄坊と吉備真備の排斥を求めています。これも、結局は聖武天皇に異を唱えていることになっています。

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