2021年12月26日日曜日

呉の鏡、画文帯神獣鏡

 呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が出土していると『卑弥呼の時代 (読みなおす日本史)』吉田 晶、吉川弘文館 (2020/4/1)にありました。呉と倭国の関係を示す鏡です。魏と対立する呉は、遼東地域から朝鮮半島に勢力を保持していた公孫氏や高句麗との間に関係を持とうとしていたとあり、

東シナ海を中心に海上を利用して活発な活動を行った呉が、公的に倭国と接触したことを物語る文献上の証拠はまったくない。だが遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が存在する。一つは、山梨県取居原きつね塚古墳出土の赤烏元年(二三八)の紀年銘をもつもので、今ひとつは、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年(二四四)の紀年銘をもつ鏡である。このことは、呉と倭人社会との間になんらかの交通関係が存在したことを物語っている。二面の鏡の存在だけで呉と倭国の公的な交通があったとはいえないが、呉の東シナ海を利用した積極的な海外進出の状況からすると、いつかは倭人社会と接触する可能性のあったことは認めなければならないだろう。 こうした可能性を魏は予測していたとみてよいと思う。ーーー(朝鮮半島との関係などから)ーーー魏としては倭国を是非とも臣属させておく必要があった。卑弥呼に「親魏倭王」という破格の厚遇を与えたのも、これと関連するわけである。

とあります。本の順番とは逆になりますが、

公孫氏政権をめぐる魏と呉の確執が最終的に決着した直後の、景初三年(二三九)六月に邪馬台国と魏の交渉が行われていることにあらためて注目する必要がある。その遣使のタイミングは絶妙でであり、卑弥呼を中心とする倭国の支配層は、右のような(*縦書きでは)東アジアの国際関係とその結果を見究めたうえで、魏への遣使を行ったとみて良いと思う。

のようなこことが記されています。遣隋使の派遣も中国情勢を見ていて決定されたと思われるのと同じで、たまたま偶然にではないということです。呉と倭国の関係の文献はないことに関して、中国三国志で魏が正統とされ、呉とかは諸外国との関係についてのは対象とならずに、記述がないともありました。三国志の世界が離れた日本に影響していたことになります。

ネットで検索すると

呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。
日本で出土する呉の鏡 https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-3

文書からは追えないようですが、呉製の神獣鏡があることから、実際には呉と倭国の間に何らかの関係があったのだろうということは確かです。『日本書紀』が朝鮮半島に偏執していて、その影響を私たちは受けているのかもしれません。

2021年12月24日金曜日

摂津職

 『新修池田市史』を見ていて、摂津職と言う言葉が出てきます。ウィキペディアの説明では、摂津職です。 

摂津国ですが、中央の機関に準じた扱いとされたようです。

「摂津職」の初出は、『日本書紀』巻第二十九の、天武天皇6年(677年)・・・
平安遷都にともない、延暦12年3月(793年)には摂津職自体も廃止され、新たに摂津国が設置され[11]、国司が任命されるようになった。

長期間に渡っておかれたようです。注目すべきは官制で、これもウィキペディアからですが、 日本の官制 

の中に、四等官がのっていて、

諸官司には一般に長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれた。 ところが、大夫、亮、大進・少進、大属・少属となっています。 また、大夫をウィキペディアで見ると、

「日本における大夫」として

『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」には、中国に遣わされた倭人の使者が自ら「大夫」と称していたという記述が見られる。しかしこれはきわめて古い時代のことであり、後の時代との関係は明らかではない。

とかいてあります。関係あると考えるのが普通ではないかと思います。摂津職は倭国の外交関係を引き継いでいた。少なくとも孝徳天皇の前期難波宮で機能していたはずです。

  • 天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔
  • 朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼
  • 持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の
  • 694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し、藤原京は成立した。(ウィキペディアから)

天武天皇の初期には、まだ前期難波宮の機能があって、平安時代に至るまで残っていたのではという気がします。唐の都、長安へのルートを逆に考えると、瀬戸内海を通り、陸路を経て、平城京に到着するという、海→陸路のパターンが同じになります。そのためには陸路の整備が必要で、天武天皇の初期段階では大和地方には大きな都城ができず、難波宮を使わざるをえなかったのということではないかとの妄想です。

『新修池田市史』には、難波宮は終わりになったのではなく、聖武天皇の時代に後期難波宮が出てきて、長岡京の造営が始まる頃まで残るまでのことも記されています。

2021年12月23日木曜日

佐伯部と猪名県

 『新修池田市史』に猪名県と佐伯部が取り上げられています。 「佐伯部は、無礼を働くので、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えている。」とウィキペディアにあります。仁徳天皇紀38年7月条の記載に、

猪名県の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「(安芸国)渟田の佐伯部」であるとも伝えている(ウィキペディア

とのことですが、 『池田学講座』、池田市教育委員会編、平成21年3刷 にわかりやすい佐伯部の分布図があります。



元の図は、Web版『図説尼崎の歴史』佐伯部の分布 

だと思いますが、こっちの方が見やすいです。 仁徳天皇の鹿の話で、仁徳天皇→孝徳天皇とすれば、理解しやすくなります。吉備と河内の連合政権のシンボルとして孝徳天皇が前期難波宮に存在したとすれば、分布図が吉備の周辺にあって良しと思えます。佐伯部が、狩猟を通じた軍事的な役割を持っていたとすれば、吉備の周辺に配置される意味があります。「れば」が多い話になってますが。

ウィキペディアで、

『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、・・・

とあるので、ヤマト政権にとって、よく思われていなかった話にも思えます。

『新修池田市史』には、猪名県(いなのあがた)の「県」について、井上光貞・上田正昭による有名な「国県論争」があったと記してあります。検索ではこの論争が見つからず、良くわかりませんが、倭国の古い行政単位の表記が「県」で示していて、孝徳天皇の時代が、倭国から日本への変化が始まる前段階であったと理解します。

『新修池田市史』は見るのが大変ですが、摂津国として考えれば、 Web版『図説尼崎の歴史』がありがたいです。 

2021年12月22日水曜日

呉服神社と呉の国

 以下、ウィキペディアの呉服神社の引用です。 

応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された阿知使主と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の姉、呉服媛を猪名の港、現在の猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の間にある唐船が淵に機殿(はたどの)を建て、迎えた。

その後、仁徳天皇76年に死去し、翌77年に仁徳天皇によって祀られたとされる。

どこまで本当かわかりませんが、仁徳天皇を孝徳天皇と読み替えれば、前期難波宮から近い猪名川水系に位置する呉服神社、読みは「くれはじんじゃ」で「ごふく」ではないですが、中国の「呉」の影響があったことになります。時代的にはあってなく、遣隋使を派遣する前の話に思われますので。話としては応神天皇とかになってるのかもしれませんが、「呉の国」の影響があったことを伝えていると思います。

仁徳天皇の話 

と思いましたが、呉服神社が古来その地にあったものとはいえないようです。『新修池田市史第一巻』平成九年三月三一日に、「クレハトリ・アヤハトリ伝承について」書かれています。応神天皇紀にあり、同型の話が雄略天皇一四年にあるとのことです。 話をはしょりますが、平安時代中期に、この地域に呉庭(くれは)と名付けられたとあります。直接には呉服神社と結びつかないようです。

雄略天皇一四年では、こちらは住吉津(すみのえつ)に至るとあり、大和にいたる地名が具体的で破綻がないとのことで、出てくる地名で、磯歯津路(いそはつのみち)が万葉集九百九十九番の歌で「四八津」であるとのことです。この歌に守部王の詔に応えて作れる歌で、守部王が天武天皇の孫であることなど、ほかの地名もあわせてそうかなと思います。天武天皇の時代でも中国南部との交渉があったかもしれません。

池田の織姫伝承では、謡曲の『呉服(くれは)』のことも書いてあります。池田に関係あるとの説に対して、内容は摂津住吉から西宮に下る話で、これは西宮恵比寿神社を示していて、西宮に地名で呉羽なども残っていて、西宮に歩があるとのことです。呉服神社の可能性は、さらになくなってきます。

池田市史には、応神天皇紀には「津国に至り、武庫に乃(いた)りて、・・・」とあるので、猪名川も武庫川も似たような地域ということなのかもしれません。

『日本書紀』では、「呉」からの伝来をあったことを伝えていることが重要なので、呉服神社がその証拠になるとまでは言えないですが、無視できないということだと思います。

2021年12月19日日曜日

雲南と出雲

 中国に雲南省というところがあります。「雲」の字関連で関係があるのかなと思いました。雲南は「雲」の「南」ということです。「南」は方角ですが、「雲」は何だろうということです。ウィキペディアで、すぐにわかりました。

雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省、拼音:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は雲、または滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。

雲嶺(うんれい)とは、中国西南部を横断する山脈である。この山脈は、横断山脈に属する山脈の中でも最も幅が広く、最も面積が広く分布している山脈である。世界遺産三江併流の構成資産に含まれる。

ウィキでは、雲南省の略称は「雲」です。隣の四川省は「川」あるいは「蜀」です。中国では地名に略称があるようです。日本においてもこれが伝わって、中央政府らしきところが、山→ヤマト、川→カワチ、木→紀州、火→肥国とか名付けた(好字令で変化してます)。文字がなかった時代に、発音に漢字を当てて作ったように思われます。雲を山と見立てるのは、中国南部の人の感覚かという気がします。中央の基準で名前をつけていくので、出雲ではなく雲西のようになっても良さそうですが、出雲の人を尊重して「出雲」になったのかもしれません。日本に漢字が導入される、訓読みの初期の段階を示していそうです。

出雲について雷のこととか書いてましたが、 大神神社と出雲 。

素直に山の向こうのところと考えた方が良さそうです。つまり、出雲の山に近い吉備あたりが倭国ということです。

日本の地域名のつけたかも、中国にならっているかもしれないことから、中国の影響は大きかったのだろうかと思います。

2021年12月18日土曜日

銅鼓と古墳壁画

 「銅鼓と銅鐸」の話の続きです。 銅鼓ですが、ドンソンドラムとしての説明などが、以下のページにありました。英語ですが翻訳でだいたい理解できます。ありがたいことです。写真では、太鼓の円形状の部分が打面で、中央に太陽文?(星形で尖ったところが偶数である)で、その外を帯状の模様があり、幾何学形状や鳥や動物、風景・人物が繰り返された模様で構成されています。星のトンガリは、12,14,16個が多いようで、6個のものもあり、決まってはいないようです。

Dong Son drum 

ベトナム銅鼓図録、六興出版 (1990/1/1)を見ると、想像で見るので勘違いがあるかもしれません。引用のページの説明からの解釈ですが、
くちばしの長い鳥はサギのようです。
鹿も描かれています。甲骨文字で、神意を占うということで、鹿の骨も神格化され、その元となる鹿も神の使い的なイメージで描かれているかもしれません。
高床式の建物もあり、側面の形が外側に広がっており(逆ハの字型)で日本の家形埴輪に似ています。

図の下の方(部分)



また、反復する幾何学紋様ですが、九州地方、福岡県。熊本県に集中する装飾古墳の紋様と似ているような気がします。あくまで個人的なものですが、同心円状の紋様とか銅鼓面の模様とが同じに思えます。銅鼓面の打面の中央部の星形に挟まれた円のところが目玉に見えてきて、チブサン古墳の紋様の目玉と三角形の元になってそうに思えました。

別の銅鼓の図(部分)です。



類似と思われるチブサン古墳の紋様 

Dong Son drum[ウィキペディア]の解説では銅鼓はロストワックス法で作られたとしています。理解不十分で書いてますが、ロウを内外の型でサンドイッチ状に作り、ロウを溶かして、すきまに青銅をながして、青銅が固まってで銅鼓ができるようです。銅剣や銅鐸は、扁平な型の間に青銅を流し込んで作ったようで、製造法が違っていたように思います(この部分根拠は全くありません)。倭国ではロウが入手できず、仕方なく、銅剣や銅矛になったかもしれません。

妄想シリーズのまとめですが、

稲作文明が中国南部からほぼダイレクトに熊本県付近に伝わり、その後の稲作文明が日本に広がった。ただし、祭祀に使う銅鼓は、製造上の問題で銅剣・銅鐸とかに変更せざるをえなかった。その後、古墳文化に進化し、この地域は伝来の紋様を用いた装飾古墳で変化に対応した。と考えると非常にすっきりします。古墳文化の中心となった吉備から律令体制のヤマトに移ったとして、九州から近畿への移動としての神武東征の話に方向として合ってきます。邪馬台国はこの地にあったと考えるのが自然になってきます。

追記:
『日本書紀』の皇極2年(643)「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 とあるようです。蜂蜜が目的ではなく、蜜蝋のためだったかもしれません。

蝋型鋳造



2021年12月15日水曜日

銅鼓と銅鐸

 銅鼓とは青銅の太鼓です。 銅鼓の説明はウィキペディアにあります。 

『これならわかるベトナムの歴史Q&A』三橋広夫、大月書店 (2005/7/15)に もう少し詳しく説明があります。

一九二四年、北部ベトナムのマー川岸のドンソン村で農民が青銅器の遺物を発見しました。形が太鼓に似ていて、ふたと思われる部分には太陽が描かれ、光が四方八方に飛びちっています。銅の部分には、杵と木臼、高床式の米倉、笛を吹きながら人々が踊っているようすなども生き生きと描かれています。この銅の太鼓を銅鼓(どうこ)と言います。・・・

さらに調査が進み、このような銅鼓が北部ベトナムばかりか、中国南部から東南アジア一帯、ニューギニア島まで分布していることがわかってきました。いまは、中国の雲南省でつくりはじめられた銅鼓の文化がしだいに南下していったと考えられます。・・・

いまでも中国南部や東南アジアの山地の人々は祭りのときに銅鼓を楽器としてうち鳴らすことからすると、おそらく当時も重要な祭祀の時に用いられたのでしょう。・・・

これだけでは、銅鼓がどのように使用されたかわかりません。下記の動画が参考になりました。

銅鼓踊り 田遊び風 

これを見ると、稲刈りの作業を銅鼓を使い、みんなでタイミングを取って行われている様子が祭りとなったことがわかります。笛を吹きながら踊っていたとの理解ですが、刈り取った稲をもっているようにも理解できるかもしれません。銅鼓も側面をぶら下げてたたいていたようです。音の出し方も、円盤状の部分と側面の二カ所をたたいているように見えます。これから銅鐸も農耕祭祀に使われたことを想像できます。 銅鐸を用いた祭祀で、銅鐸が前方にあり、皆がそれに伏し拝むような図を見ますが、どういう根拠があるのか、ちょっと問題有りに思えます。

銅剣を用いた祭祀も、どんなものか不明でしたが、この動画から想像すると、その原初のスタイルは、木の棒を二本でたたいて音を出していたのかと思えます。農耕祭祀ですが、音の出し方が銅剣と銅鐸という違いにあったということで分布の違いを理解できてきます。

問題は、銅鼓から銅鐸へと変化して伝わったとは考えられないことです。銅鼓は円筒状で、銅鐸は扁平です。銅剣も扁平と言えます。大きな断絶があります。

銅鐸のことがわかってないので、銅鐸の本を見ました。 『銅鐸の考古学』、佐原 真、東京大学出版会 (2002/4/1) の中に、「銅鼓の祭り」の説明があります。

銅鐸の時代、中国の南部からベトナムにかけては、銅の太鼓を稲作の祭りに使っていた。種類は違っても、その祭りは、銅鐸の祭りと共通するところがあったと考えられている。太鼓に表された農村風景も弥生の村を想像させる。銅の太鼓の祭りは、現在もなお中国南部やベトナムなどに伝わっている。そして、面白いことに祭りの時以外には、銅の太鼓を土の中に埋め隠している例がある。
これは、銅鐸が土の中に埋めてあることと共通している。

中国南部やインドシナでは、漢代以来、銅鼓を祭りに使った。
錞于(じゅんう)とよぶ戦国時代の太鼓が祖先と考えられている。雲南省石寨山(せきさいざん)の墓からは、銅鼓そのものや銅鼓形の子安貝貯蔵器がみつかった。これには、銅鼓の祭りや戦いの様子、農村風景が表されている。
漢代の中国周辺部の初期農耕文化の所産として、銅鐸と銅鼓は親戚とみてよい、現在まで伝わる銅鼓の祭りは、それを土の中に保管する風習と共に、銅鐸の祭りや埋納を考える上で絶好の比較資料である。

現時点では、中国南部から、朝鮮半島南部または九州西部に稲作文明がパッケージとして伝来したが、銅鼓は製造上の問題かなにかで、銅剣や銅鐸に変化してしまったと考えたいです。

2021年12月12日日曜日

地名のハノイ

 ベトナムのハノイです。フランスの植民地化でベトナムはローマ字表記になり、それで日本語で、ハノイというカタカナになったのでパット見ではわかりませんが、漢字で河内です。日本語的な読みでは「カナイ」です。ウィキペディアの「ハノイ」で見ると、「紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する」とあります。地形に由来していますが、ベトナムが中国の支配下にあった名残です。河内と知ると親しみを感じます。日本での問題は「カワチ」と発音することにありました。多分、発音で「カワチ」というのが先にあって、漢字で河内と当てたのではと思われます。河内とカワチが一体化していましたが、間違いでした。もちろん、ヤマトは「山外」とカワチの「河内」でセットと考えています。

2021年12月11日土曜日

『日本書紀』の「日本」

 『日本書紀』のタイトルにどうして「日本」がついているのかということです。『古事記』的な名前で良かったはずです。

『物語 ヴェトナムの歴史―一億人国家のダイナミズム』、 中公新書1372、小倉貞男、中央公論新社 (1997/7/25)にヴェトナムの名前の由来書いてあります。参考になりました。

「ヴィェトナム」(VIET NAM)という国名は、ヴェトナム自身がつけたものではない。はじめてヴェトナムを統一した王朝に対して、中国の清朝が名付けさせたもおである。このときヴェトナムは自ら国名をつけることができなかった。
「ヴィェトナム」は漢字で「越南」と書く。
一八〇二年五月一日、ヴェトナム最後の王朝となるグエン(阮)王朝が樹立された。史上はじめて全土を統一したグエン・フック・アイン(阮福映)は、自ら即位して皇帝を名乗り、年号をジャロン(嘉隆)と定めた。清朝とは朝貢関係にあったので、ジャロンは全土を平定したことを清朝に報告し、国号を「ナムヴィェト(南越)」としたいと願い出た。ところが、清朝はジャロンが国王となったことは認めたが、「南越」という国号を使うことを許可しなかった。これには中国側に理由があった。紀元前二〇七年、中国の秦朝末期の混乱期に、中国南部に秦朝に対して反逆した政権が誕生した。国号を「南越」と名乗り、いまの広東を首都・番禺とよび、広大な中国南部一帯を支配した。・・・(清朝はこれをきらったということである)・・・中国はなんといってもアジアの秩序を取り仕切っている帝国である。その中国が、「ヴィェトナムを名乗れ」というのだから仕方がない。「華夷秩序」の世界では中国の意向に絶対に逆らえない。「華」つまり中国の朝廷はつねに世界の中心である。当時は「アジア」という概念がなかったから中国の朝廷イコール世界の中心、指導者である。中国と国境を接している国々も、接していない国々も、「夷(えびす)」は、みな中国のご機嫌をとらなければならなかた。

朝鮮についても同様のことが書いてあったのですが、どこかわからなくなってしまいました。ウィキペディアの「李氏朝鮮」より引用します。

高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった[11]

「華夷秩序」の世界で、国名を中国に認めさせるのは大変なことだとわかります。『日本書紀』も本当は「倭国書紀」であったかもしれません。国号を「日本」とするために、その正統性を主張するためのものとして、『日本書紀』が編纂されたということだったとあらためて思います。『日本書紀』の潤色問題も、正統性の邪魔になるところで行われていることになります。

2021年12月10日金曜日

魏志倭人伝の貫頭衣とアオザイ

 ウォーキングで、着込むと汗で蒸れるので、その対策が課題です。脇にスリットを入れればよいかと考えて、ベトナムの民族衣装であるアオザイに興味を持ったと思います。アオザイをウィキペディアで見ると、アオババというものもあるようです。リンクのチャイナドレスでは、中国の北方民族の衣装がチャイナドレスに影響を与え、それがベトナムのアオザイに伝わったとあります。しかし、アオババなど非常に風通しがよくて、南方系の服に思えます。古い時代からこのようなスタイルの服がこの地にあったと思います。それとズボン的なものでは裾をめくるのが面倒くさいはずで、アオザイ的な服装の方が水田稲作に向いているように思えます。ベトナムは漢字で越南です。中国越地方の南の意味です。中国南部とつながりがあります。水田稲作とつながりがありそうです。

魏志倭人伝ですが、ネットにありました。

古代史レポート、魏志倭人伝より 

その引用です。

その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。

貫頭衣もアオザイと同じで正装であって、面会の時に、詳しく尋ねていたのかもしれません。使いに対して礼節をもって対応する人の礼装の様子を描いていたような気もします。 またその後に続いて、以下のようなことが書かれています。

稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。

中国・海南島と同様との記述があります。つまり、これが正しければ、倭国も南方系の影響のある地域と認識されたということになります。邪馬台国が近畿か九州かという時に、九州の方にあったと考えるのが自然に思えてきます。また、稲作と貫頭衣の伝播が一体としてあったことも考えられます。

2021年12月8日水曜日

朝鮮半島の前方後円墳

 『「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書)』高田 貫太、KADOKAWA (2019/9/20)を図書館から借りてきて読んでます。 「異形」というのは大業なタイトルに思えますが、新しい前方後円墳の考え方が述べられています。 24ページ引用

この新たな議論の指摘で重要なことは三つある。ひとつは古墳の墳形大きさに、前方後円墳を頂点とする相当に厳密で一元的な政治秩序をよみとろうとすることはむずかしいのではないか、ということである。二つめは古墳造営の背後に、倭王権(構成する有力)のみならず、列島各地の地域社会の自律的で競合的な政治経済的な活動がみとめられる、という点である。そして三つめは、その競合的な関係の中で、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳という、おおむね共通のコンセプトを共有しながらも相互に思想的な差異をふくみこむモニュメントが、日本列島各地にさかんに造営された、ということだ。

ここから、議論が始まるということです。確かに古墳造成は祭祀儀礼の一つですが、しょっちゅうあるものではありません。大林組の試算で長期間かかるとしたデータがありますが、すべて人力の現実的で無いものです。倭王権が長期にわたって支配してるとは思えません。銅鐸などでは毎年のように使用されるでしょうが、別物とすべきと思います。 地名についてわかりにくいですが、朝鮮半島南部と北九州のつながりについて述べられていると理解しました。 この地域は案外広い海峡の両側にあります。瀬戸内海や有明海・八代海の比ではありません。海洋文明があったということで、倭国の前方後円墳もこの地域に影響を与えたということでしょう。倭国はこの地域に鉄の入手を強く求めたことが想像されます。 問題に思うのは、水田稲作です。朝鮮半島から北部九州に伝来したとの説です。朝鮮半島で稲作が始まったわけでなく、中国から伝わったと考えられます。どのように朝鮮半島に伝わったのか示されていません。書くまでもなく常識的なことかもしれませんが、個人的には?だと思います。

八世紀には、渤海使が日本に来ています。渤海は朝鮮半島の北の国です。朝鮮半島の沿岸沿いではなく直接に日本海を経てやってきたようです。下記の本では、能登半島や、敦賀など。距離的には、中国と九州西部間の距離に見えます。時代が違いますが、中国から直接に稲作が日本に伝わったこともありうると思いました。
『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科、平凡社 (2006/11/11)、
「渤海の対外交易」の地図のところでは朝鮮半島の東西の海は、東海[日本海]、西海[黄海]と標示されています。『「異形」の古墳』を見ていて、朝鮮半島の歴史は政治問題化しそうで微妙なところがあるようです。

2021年12月6日月曜日

青銅器分布の継続性

 青銅器の分布で、銅鐸・銅剣・銅矛で、地域間の偏りがある図をよく見ます。 NHK For School の動画で、銅鐸・銅剣・銅矛の説明がありました。 祭祀儀礼に使用されたと説明があります。動画の中でも地域分布が示されます。 動画での銅剣では、よくわかってないので間違ってるかもしれないですが、双環柄頭短剣のように見えます。デジタル大辞泉では、双環柄頭短剣は

中国北方に分布するオルドス式短剣に似た特徴をもつ。平成25年(2013)に滋賀県高島市の上御殿かみごてん遺跡で紀元前4〜3世紀のものとみられる鋳型が発見された。

とあります。他にも出土してるのかもしれませんが、知識が古いままで時代遅れの知識なのか、よくわかりません。 問題のありそうな話題で、とんちんかんなことを言ってるかもしれません。分布図の例が、
野洲川下流域の弥生遺跡群のホームページ 

にあります。ほかにもありそうですが、検索上位のものです。分布範囲は作図者によって変わりそうですが、大雑把には地域間での違いがあることがわかります。この分布を見ていて、時代を経て、古墳時代にも地域のまとまりが維持されているようで、さらに、律令制の直前でも残っていたような気がします。陸上交通が未発達の段階では、領域の変化はほぼ無かったのではないかと思えます。

2021年12月4日土曜日

土蜘蛛(土蜘)

 能の演目の一つです。能をわかってませんので、詳しく考えたいのですが、メモ書きとします。 話は、

病に伏せる源頼光のもとに怪しげな僧があらわれ、蜘蛛の糸を投げかけるが、頼光に切られて逃げ去る。頼光の部下が血痕を見つけ、怪物の後を追って葛城山に行くと、土蜘蛛の精が現れて、格闘の末退治される。(能鑑賞二百一番、金子直樹、淡交社 (2008/10/7)より

この本の解説には

典拠となった『平家物語』剣の巻では、土蜘蛛の塚は京都の北野だとされており、今でも北野天満宮近くに伝承の塚が二カ所残っている。ところが能では、塚の在り処を大和の葛城山だとしている。「土蜘蛛」とは昔からその地に住んでいて、新しく支配者になった大和朝廷に服従しなかった人たちのことで、なかなか従わない古くからの民を土蜘蛛という化け物に見立てた、統制の戦いを表現しているとも考えられる。

とあります。ウィキペディアを見ると、主君は、「藤原兼家→道長→頼通」で、父は源満仲で、多田満仲とも呼ばれます。多田とは多田銀山があったところで、満仲は多田源氏の祖とされます。アメリカのゴールドラッシュの時のインディアンと土蜘蛛が似ているような気がします。大和朝廷の時代はそうであったとは思いますが、平安時代でも同様のことがあったのではとの妄想です。

『平家物語』剣の巻が、なかなかわかりませんでした。諸本あり、含まれてない本で探していたかもしれません。
『平家物語ハンドブック』、小林 保治 (編集)、三省堂 (2007/2/25)
を見て、どのあたりにあるかわかりました。
『新潮日本古典集成、平家物語 下』、水原 一、巻十一剣の巻下
に確かにあります。塚穴に入っていた蜘蛛を退治したという話です。ただ虫を退治しただけには思われません。

2021年12月3日金曜日

前方後円墳、馬、製塩土器

 河内湖のことを探していて図書館で

大阪府立狭山池博物館図録18平成28年度特別展『河内の開発と渡来人 –蔀屋北遺跡の世界-』 蔀屋北(しとみやきた)遺跡

を借りてきました。 古墳時代から奈良時代にかけてがわかる蔀屋北遺跡のことが特集されています。

「第5章河内馬飼い」で、[A]讃良郡と馬飼いのことが書かれています。

五世紀の河内湖周辺には馬具・馬骨・馬歯の出土する遺跡が数多くみられます。馬とかかわりがある集団は古くから広範囲に居住していたようです。ところが、その実態はよくわかっていません。・・・・『日本書紀』履中天皇5年条、淡路島で狩猟嫉したときが目の縁に入れ墨をした馬飼の話が最も古い記事で、・・・百済に、欽明天皇七年条に「良馬七十匹、船十隻を贈る」、同十五年条は「馬百疋、船四十隻を贈る」、同十七年条は「兵仗と良馬を贈ること甚多なり」とあります。馬を輸出するほどに飼育が広がった可能性があります。 天武天皇十二年条には、天皇の詔で大和馬飼造・川内馬飼造・娑羅羅(さらら)馬飼造・菟野(うの)馬飼造などに、それぞれ連性(むらじせい)を与えています。・・・

次の[B]「仔馬の語る牧の実態」では、『日本書紀」天武天皇十三年条に、馬は軍事上重要であると書いてあるそうです。 『日本書紀』全文検索で見ると多分以下のところのようです。

「凡政要者軍事也。是以、文武官諸人務習用兵及乘馬。則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。其有馬者爲騎士・無馬者步卒、・・・

天武天皇は馬を重視していたことがなんとなくわかります。 仔馬の骨も見つかっていることから、馬を育てていたことや馬具なども作っていたことがわかるそうです。 その次の[C]「馬具と馬装」では、

百済南部の栄山江流域を中心とする全羅南道一帯は、渡来文化の故地として注目されているのですが、馬具が出現する時期が、わが国より遅れることがわかってきました。・・・

このあたり、現在はどうなっているのだろうと思います。

さて重要と思われる[D]馬の飼育に不可欠な塩について書かれています。

河内湖周辺遺跡で馬骨・馬歯や馬具が発見されることに伴って、塩をつくるための土器がたくさん見つかります。このような大量の塩を必要としたのは馬だと考えられています。奈良時代の『養老令』第二十三巻の「廐牧令」に、官馬には、毎日馬の大きさに合わせ、馬草以外に稲・豆などとともに一定量の塩を与えることが記されています。それは、馬が汗かきで、多くの水分と塩分を必要とするものの、飼料からは塩分補給ができないからです。また、馬から皮革を得る場合にも、皮なめしなどに大量の塩が必要だったようです。

参考:『養老令』第二十三巻の「廐牧令」

単純ですが、巨大な前方後円墳を築造するには、人手では無理→馬など使う→大量の塩が必要→塩が用意できる地域でないと無理→土器と製塩の条件のところ→瀬戸内海の吉備の地域が有利→吉備の前方後円墳が発達
となったのではということです。

前方後円墳の土木技術が、転用されて、吉備と河内の連合勢力により、難波の堀江の開削とか前期難波宮などのインフラ工事につながり、まだこのときは海洋国家でしたが、天武天皇の時代になりインフラの目標が道路整備に向かい、すべての道はヤマトに通ずるといいう律令制を目指したのではないかというストーリーになります。

2021年12月1日水曜日

持統天皇と河内湖

 『大阪のトリセツ』昭文社 旅行ガイドブック 編集部、2020/11/01に、「こんなに違った古代の大阪!」ということで地図があります。河内湾→河内潟→河内湖→今は平野部の図です。この変遷の図が東大阪市のサイトにあります。キャプチャーしました。以下です。 東大阪市のサイト、概要の3ページ 



現在では想像できないような変化があり、西暦400年頃が近そうですが、わかりにくいです。持統天皇の名となった鸕野讃良皇女から讃良郡の古い時代の地図は、讃良郡条里遺跡があり、近くに蔀屋北遺跡があり、それからおおよそわかります。



図は、蔀屋北(しとみやきた)遺跡現地説明会資料  より。

蔀屋北遺跡周辺古地図です。讃良郡条里遺跡が近くにあります。 古墳時代中・後期の大規模な集落跡が発見されています。

何を言いたいのかと思われますが、持統天皇が古墳時代から奈良時代につながる地域の出身で、個人的には、古墳時代と律令制の時代が分離していましたが(不連続に思っていたのが)、この遺跡と持統天皇の存在からつながりを感じました。