2021年12月22日水曜日

呉服神社と呉の国

 以下、ウィキペディアの呉服神社の引用です。 

応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された阿知使主と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の姉、呉服媛を猪名の港、現在の猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の間にある唐船が淵に機殿(はたどの)を建て、迎えた。

その後、仁徳天皇76年に死去し、翌77年に仁徳天皇によって祀られたとされる。

どこまで本当かわかりませんが、仁徳天皇を孝徳天皇と読み替えれば、前期難波宮から近い猪名川水系に位置する呉服神社、読みは「くれはじんじゃ」で「ごふく」ではないですが、中国の「呉」の影響があったことになります。時代的にはあってなく、遣隋使を派遣する前の話に思われますので。話としては応神天皇とかになってるのかもしれませんが、「呉の国」の影響があったことを伝えていると思います。

仁徳天皇の話 

と思いましたが、呉服神社が古来その地にあったものとはいえないようです。『新修池田市史第一巻』平成九年三月三一日に、「クレハトリ・アヤハトリ伝承について」書かれています。応神天皇紀にあり、同型の話が雄略天皇一四年にあるとのことです。 話をはしょりますが、平安時代中期に、この地域に呉庭(くれは)と名付けられたとあります。直接には呉服神社と結びつかないようです。

雄略天皇一四年では、こちらは住吉津(すみのえつ)に至るとあり、大和にいたる地名が具体的で破綻がないとのことで、出てくる地名で、磯歯津路(いそはつのみち)が万葉集九百九十九番の歌で「四八津」であるとのことです。この歌に守部王の詔に応えて作れる歌で、守部王が天武天皇の孫であることなど、ほかの地名もあわせてそうかなと思います。天武天皇の時代でも中国南部との交渉があったかもしれません。

池田の織姫伝承では、謡曲の『呉服(くれは)』のことも書いてあります。池田に関係あるとの説に対して、内容は摂津住吉から西宮に下る話で、これは西宮恵比寿神社を示していて、西宮に地名で呉羽なども残っていて、西宮に歩があるとのことです。呉服神社の可能性は、さらになくなってきます。

池田市史には、応神天皇紀には「津国に至り、武庫に乃(いた)りて、・・・」とあるので、猪名川も武庫川も似たような地域ということなのかもしれません。

『日本書紀』では、「呉」からの伝来をあったことを伝えていることが重要なので、呉服神社がその証拠になるとまでは言えないですが、無視できないということだと思います。

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