2021年12月3日金曜日

前方後円墳、馬、製塩土器

 河内湖のことを探していて図書館で

大阪府立狭山池博物館図録18平成28年度特別展『河内の開発と渡来人 –蔀屋北遺跡の世界-』 蔀屋北(しとみやきた)遺跡

を借りてきました。 古墳時代から奈良時代にかけてがわかる蔀屋北遺跡のことが特集されています。

「第5章河内馬飼い」で、[A]讃良郡と馬飼いのことが書かれています。

五世紀の河内湖周辺には馬具・馬骨・馬歯の出土する遺跡が数多くみられます。馬とかかわりがある集団は古くから広範囲に居住していたようです。ところが、その実態はよくわかっていません。・・・・『日本書紀』履中天皇5年条、淡路島で狩猟嫉したときが目の縁に入れ墨をした馬飼の話が最も古い記事で、・・・百済に、欽明天皇七年条に「良馬七十匹、船十隻を贈る」、同十五年条は「馬百疋、船四十隻を贈る」、同十七年条は「兵仗と良馬を贈ること甚多なり」とあります。馬を輸出するほどに飼育が広がった可能性があります。 天武天皇十二年条には、天皇の詔で大和馬飼造・川内馬飼造・娑羅羅(さらら)馬飼造・菟野(うの)馬飼造などに、それぞれ連性(むらじせい)を与えています。・・・

次の[B]「仔馬の語る牧の実態」では、『日本書紀」天武天皇十三年条に、馬は軍事上重要であると書いてあるそうです。 『日本書紀』全文検索で見ると多分以下のところのようです。

「凡政要者軍事也。是以、文武官諸人務習用兵及乘馬。則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。其有馬者爲騎士・無馬者步卒、・・・

天武天皇は馬を重視していたことがなんとなくわかります。 仔馬の骨も見つかっていることから、馬を育てていたことや馬具なども作っていたことがわかるそうです。 その次の[C]「馬具と馬装」では、

百済南部の栄山江流域を中心とする全羅南道一帯は、渡来文化の故地として注目されているのですが、馬具が出現する時期が、わが国より遅れることがわかってきました。・・・

このあたり、現在はどうなっているのだろうと思います。

さて重要と思われる[D]馬の飼育に不可欠な塩について書かれています。

河内湖周辺遺跡で馬骨・馬歯や馬具が発見されることに伴って、塩をつくるための土器がたくさん見つかります。このような大量の塩を必要としたのは馬だと考えられています。奈良時代の『養老令』第二十三巻の「廐牧令」に、官馬には、毎日馬の大きさに合わせ、馬草以外に稲・豆などとともに一定量の塩を与えることが記されています。それは、馬が汗かきで、多くの水分と塩分を必要とするものの、飼料からは塩分補給ができないからです。また、馬から皮革を得る場合にも、皮なめしなどに大量の塩が必要だったようです。

参考:『養老令』第二十三巻の「廐牧令」

単純ですが、巨大な前方後円墳を築造するには、人手では無理→馬など使う→大量の塩が必要→塩が用意できる地域でないと無理→土器と製塩の条件のところ→瀬戸内海の吉備の地域が有利→吉備の前方後円墳が発達
となったのではということです。

前方後円墳の土木技術が、転用されて、吉備と河内の連合勢力により、難波の堀江の開削とか前期難波宮などのインフラ工事につながり、まだこのときは海洋国家でしたが、天武天皇の時代になりインフラの目標が道路整備に向かい、すべての道はヤマトに通ずるといいう律令制を目指したのではないかというストーリーになります。

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