『新修池田市史』に猪名県と佐伯部が取り上げられています。 「佐伯部は、無礼を働くので、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えている。」とウィキペディアにあります。仁徳天皇紀38年7月条の記載に、
猪名県の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「(安芸国)渟田の佐伯部」であるとも伝えている(ウィキペディア)
とのことですが、 『池田学講座』、池田市教育委員会編、平成21年3刷 にわかりやすい佐伯部の分布図があります。
元の図は、Web版『図説尼崎の歴史』佐伯部の分布
だと思いますが、こっちの方が見やすいです。 仁徳天皇の鹿の話で、仁徳天皇→孝徳天皇とすれば、理解しやすくなります。吉備と河内の連合政権のシンボルとして孝徳天皇が前期難波宮に存在したとすれば、分布図が吉備の周辺にあって良しと思えます。佐伯部が、狩猟を通じた軍事的な役割を持っていたとすれば、吉備の周辺に配置される意味があります。「れば」が多い話になってますが。
ウィキペディアで、
『常陸国風土記』茨城郡条には、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、・・・
とあるので、ヤマト政権にとって、よく思われていなかった話にも思えます。
『新修池田市史』には、猪名県(いなのあがた)の「県」について、井上光貞・上田正昭による有名な「国県論争」があったと記してあります。検索ではこの論争が見つからず、良くわかりませんが、倭国の古い行政単位の表記が「県」で示していて、孝徳天皇の時代が、倭国から日本への変化が始まる前段階であったと理解します。
『新修池田市史』は見るのが大変ですが、摂津国として考えれば、 Web版『図説尼崎の歴史』がありがたいです。
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