2021年12月24日金曜日

摂津職

 『新修池田市史』を見ていて、摂津職と言う言葉が出てきます。ウィキペディアの説明では、摂津職です。 

摂津国ですが、中央の機関に準じた扱いとされたようです。

「摂津職」の初出は、『日本書紀』巻第二十九の、天武天皇6年(677年)・・・
平安遷都にともない、延暦12年3月(793年)には摂津職自体も廃止され、新たに摂津国が設置され[11]、国司が任命されるようになった。

長期間に渡っておかれたようです。注目すべきは官制で、これもウィキペディアからですが、 日本の官制 

の中に、四等官がのっていて、

諸官司には一般に長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれた。 ところが、大夫、亮、大進・少進、大属・少属となっています。 また、大夫をウィキペディアで見ると、

「日本における大夫」として

『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」には、中国に遣わされた倭人の使者が自ら「大夫」と称していたという記述が見られる。しかしこれはきわめて古い時代のことであり、後の時代との関係は明らかではない。

とかいてあります。関係あると考えるのが普通ではないかと思います。摂津職は倭国の外交関係を引き継いでいた。少なくとも孝徳天皇の前期難波宮で機能していたはずです。

  • 天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔
  • 朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼
  • 持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の
  • 694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し、藤原京は成立した。(ウィキペディアから)

天武天皇の初期には、まだ前期難波宮の機能があって、平安時代に至るまで残っていたのではという気がします。唐の都、長安へのルートを逆に考えると、瀬戸内海を通り、陸路を経て、平城京に到着するという、海→陸路のパターンが同じになります。そのためには陸路の整備が必要で、天武天皇の初期段階では大和地方には大きな都城ができず、難波宮を使わざるをえなかったのということではないかとの妄想です。

『新修池田市史』には、難波宮は終わりになったのではなく、聖武天皇の時代に後期難波宮が出てきて、長岡京の造営が始まる頃まで残るまでのことも記されています。

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