2021年12月18日土曜日

銅鼓と古墳壁画

 「銅鼓と銅鐸」の話の続きです。 銅鼓ですが、ドンソンドラムとしての説明などが、以下のページにありました。英語ですが翻訳でだいたい理解できます。ありがたいことです。写真では、太鼓の円形状の部分が打面で、中央に太陽文?(星形で尖ったところが偶数である)で、その外を帯状の模様があり、幾何学形状や鳥や動物、風景・人物が繰り返された模様で構成されています。星のトンガリは、12,14,16個が多いようで、6個のものもあり、決まってはいないようです。

Dong Son drum 

ベトナム銅鼓図録、六興出版 (1990/1/1)を見ると、想像で見るので勘違いがあるかもしれません。引用のページの説明からの解釈ですが、
くちばしの長い鳥はサギのようです。
鹿も描かれています。甲骨文字で、神意を占うということで、鹿の骨も神格化され、その元となる鹿も神の使い的なイメージで描かれているかもしれません。
高床式の建物もあり、側面の形が外側に広がっており(逆ハの字型)で日本の家形埴輪に似ています。

図の下の方(部分)



また、反復する幾何学紋様ですが、九州地方、福岡県。熊本県に集中する装飾古墳の紋様と似ているような気がします。あくまで個人的なものですが、同心円状の紋様とか銅鼓面の模様とが同じに思えます。銅鼓面の打面の中央部の星形に挟まれた円のところが目玉に見えてきて、チブサン古墳の紋様の目玉と三角形の元になってそうに思えました。

別の銅鼓の図(部分)です。



類似と思われるチブサン古墳の紋様 

Dong Son drum[ウィキペディア]の解説では銅鼓はロストワックス法で作られたとしています。理解不十分で書いてますが、ロウを内外の型でサンドイッチ状に作り、ロウを溶かして、すきまに青銅をながして、青銅が固まってで銅鼓ができるようです。銅剣や銅鐸は、扁平な型の間に青銅を流し込んで作ったようで、製造法が違っていたように思います(この部分根拠は全くありません)。倭国ではロウが入手できず、仕方なく、銅剣や銅矛になったかもしれません。

妄想シリーズのまとめですが、

稲作文明が中国南部からほぼダイレクトに熊本県付近に伝わり、その後の稲作文明が日本に広がった。ただし、祭祀に使う銅鼓は、製造上の問題で銅剣・銅鐸とかに変更せざるをえなかった。その後、古墳文化に進化し、この地域は伝来の紋様を用いた装飾古墳で変化に対応した。と考えると非常にすっきりします。古墳文化の中心となった吉備から律令体制のヤマトに移ったとして、九州から近畿への移動としての神武東征の話に方向として合ってきます。邪馬台国はこの地にあったと考えるのが自然になってきます。

追記:
『日本書紀』の皇極2年(643)「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 とあるようです。蜂蜜が目的ではなく、蜜蝋のためだったかもしれません。

蝋型鋳造



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