2022年11月29日火曜日

数字の読み方、日本語・中国語

 中国語と日本語は別物だという人がいました。 中国語と日本語は似てる部分がありように思いました。数の読み方です。

漢字
日本語イチ二ーサンシーゴー
中国語イーァー
リィャン
サンスーウー
ロクシチ
ヒチ
ハチキュウジュウ
リィゥチーバージゥシー

「二」は後ろに単位が付く場合「两(リィャン)」に変化します。 「二」「五」「九」「十」は違うように見えます。「五」ですが、見かけはまったく違うようですが、「呉」の日本語発音では、「ゴ」「クレ」です。これが中国語では「ウー」です。数字の中国語読みにある「ウー」も昔は「ゴ」のように思えてきます。

読み方は中国伝来のように思えます。

以下のところには、詳しく書いてあります。 世界の言語の数体系 

日本語の数体系(複雑度順位66で下の方)では

この数体系は中国語から輸入されたもので、100 未満は発音以外同じです。日本古来の数体系とは異なります。

とあります。

漢数字の元々の読み方はすべて呉音だが、四、九の呉音「し」、「く」は「死」、「苦」に通じ、また七の呉音「しち」は「いち」と紛らわしいので、置き換えられた。

とあり、修正されていますが、普通に気にせず使っているように思えます。

しかし、中国語の数体系(複雑度順位65)より広東語の数体系(複雑度順位67)を見ると、こちらの方が日本の数え方に似ているように思われます。また上海語の数体系(複雑度順位56)には、「二」を「二ー」と発音しています。良いとこ取りをすれば、日本語の数体系になりそうですが、カタカナの発音では不正確なのでおおよその話になりそうです。

ニューエクスプレスプラス 広東語《CD付》、飯田真紀、白水社 (2019/12/15)を借りてきて見ると、「五」の発音は「んー」となっていて、ピンインは「ng6」で、鼻濁音です。数字の6は声調で普通より低めの音になるようです。「ゴー」と近い発音に思えます。

数字の発音は漢数字の伝来と一体となってるのは確かそうです。

「いち」「にー」「さん」・・・は音読みとは思いもしませんでした。

しかし、「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」・・・こちらはまったく異なり、訓読みのようです。中国伝来よりは古そうです。

広東語については、日本語と似ていると前に言ってました。我ながら忘れるのが速いです。 広東語と台湾語

*「七」を「ヒチ」と読むのは方言らしいです。グーグル検索では「ひちふくじん」でも出てきますが、かな変換では「しちふくじん」でないと出てきません。

2022年11月27日日曜日

47都道府県人のゲノムと邪馬台国

 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

の中に図があります。現代人のゲノム解析から生成されたものです。この図でどの時代まで遡れるかということですが、名字の分布図と似ているので、八世紀までは(律令制の確立とともに名字が生まれたと考えています)充分戻れると思われます。この時代では近畿地方は南は四国、北は北陸の方に交易圏か文化圏のようなものが広がっていて、瀬戸内海の方にはそれほどでもないように見えます。現代は内海は安全に航行できますが、古代で統一された国とかでなければ、海賊などで危険であったように想像されます。外海の方が邪魔のない分スムーズに移動できることが起因してように思います。邪馬台国の近畿説は無理がある気がします。

現時点では、やはり邪馬台国は九州にあったとします。さすれば、近畿地方はどうだったかということになります。邪馬台国と同様な別の国があった(ほかの地域にも)と考えるのが良さそうに思われます。

以下は、妄想の世界です。
邪馬台国は魏との関係がありました。当時は、蜀・魏・呉の三国志の時代です。邪馬台国と対立する国は、魏と対立していた呉と関係を求めたことが想像されます。蜀はちょっと遠そうなので除外します。


想像図


適当に呉の位置を入れました。一つは広島県の呉市です。「くれ」し なので呉の国と国と関係あると思っています。「」し でなく訓読みなので関係ないだろうとも思われますが、「はせ」を長く続く谷の地域から「長谷」と読む例があります。 長谷寺 

この地域が、呉に関係していて、発音では「くれ」となっていたのでだとの推測です。全然わかりませんが、「くれ」の読みについて、以下に少しありました。

Re: 呉市の名前の由来を 教えてください - くれナビ なんでも質問箱 

近畿地方にも入れて見ました。「呉」の瓦が発見されているので可能性は充分あります。 檜隈寺跡の「呉」と書かれた瓦 

北陸の越は、図がさびしいので入れました。時代が違っていて問題ありそうで×をつけて表示しています。

以下は遺伝子の都道府県別分布のあるところです。念のため残しておきます・

https://honkawa2.sakura.ne.jp/images2/7720e2.gif

日経サイエンス2021年8月号 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源


2022年11月22日火曜日

三関の位置と琵琶湖ルート

 前の記事からの思いつきです。 

淀川から琵琶湖経由で北陸に至る経路を琵琶湖ルートと勝手にしてますが、天武天皇の時代には重要であったと思われます。三関が琵琶湖ルートを防衛してるように見えてきました。三関は東国との境界にあります。ウィキペディアからの三関の説明ですが、

三関(さんげん、さんかん)とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された3つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の3つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。

三関の意味ですが、ウィキペディアでは

古代、三関は天皇の交代など政情不安の際交通を遮断のため、堅く閉められていた[1]。
[1]^ “道路”. 関・関所、古代. 国土交通省 (2013年11月6日). 2016年11月29日閲覧。

とのことのようです。天智天皇の近江京では、そうかもしれませんが、その後に遷都された都の位置からはどうだろうと思われます。古代において琵琶湖経由が重要な交通路であって、それを防衛するために元々設置されたのが三関ではないかと思えてきます。新羅など大陸側への交通路を遮断されるのを天武天皇がおそれたのではという気がします。とくに愛発関など後に廃止されますが、古代にはまだまだ日本海ルートが重要視されていたのではと想像します。

文章だけではわかりにくいので、ウィキペディアの図を見てください。 

三関のおよその位置を示した地図 

2022年11月21日月曜日

『ローマ文化王国ー新羅』の可能性

 「正倉院」を検索していて

 『正倉院の謎』由水常雄 から、この本の著者の別の本を図書館から借りてきました。
 『ローマ文化王国ー新羅』由水常雄、新潮社(2001/7/5)
ローマと新羅を結びつけたかなりマニアックな本です。「あとがき」で、

著者が原稿を書き終えて編集者に手渡した時に、「要するにこれは独断と偏見による見解でしょう」という強烈な一撃を喰った。当然に予測される反応ではあったが、まさか編集者から最初の一撃を喰うとは、考えたこともなかったので、大変なショックを受けた。・・・

と書かれています。当ブログもこの人を目標にめげずにやっていきたいとは思いました。

アマゾンの説明では

4世紀~6世紀の新羅地方の遺跡から、ローマ文化の遺物が次々と発掘されている。中国文化の傘下にあった東アジアにおいて、新羅がローマ文化を持っていたとする著者の説を、実際に出土した遺物から検証する。

とのことです。途中の詳細な検討の話は省きますが、この本の終章で、ローマから新羅へどのように伝わったかについて述べられています。ステップルートによって伝わったと考えられるとのことです。本当にそうだろうかと思います。強く主張できる根拠はありませんが、海洋ルートの可能性があるかもしれないと思いました。

グーグルマップにで想像図を書いてみました。


                                                                    海洋ルートの図

朝鮮半島のマークは慶州で、ローマ文化の遺物とされる人面があるトンボ玉が発見されたところです。大陸からでなく海路で日本海側を伝って行けそうです。赤のコースです。時代は下りますが、天武天皇の時代、多禰島と関係がありました。茶色の線が考えられます。一方、新羅使が日本へ来ていたりしています。そのルートは、淀川から琵琶湖を経由します。船のルートです。北陸へ抜けるところは陸地がありますが、そのあと、山陰側を海路で新羅に向かう赤の線のコースがありえたと思います。この時代、出雲の国や紀の国が重用されていたことが、うなずけます。唐に対抗して、対外的な交渉を目指していた日本の重要なコースになっていたと思われます。その素地が古代よりあったのではということになります。

前の記事、 47都道府県人のゲノムが明かす 
日本人の起源 の図がありましたが、すでに天武天皇より古い時代において、琵琶湖経由のルートが成立していたことが考えられます。天武天皇がペルシャ人ということも、「ローマ文化王国ー新羅」からすればありえます。

力説されてましたいるトンボ玉のイメージがわかないと思われますが、以下に見つかりました。
(写真とかは下記にありました。
ネックレス
トンボ玉、
これは以下の記事にあります。
読書メモ「ローマ文化王国-新羅」由水常雄 ケルト王のトンボ玉 ユーラシア交易ルート )

由水常雄氏のこの本の「あとがき」に、新羅からアラビア半島に移住した人たちがいると書かれています。いかがわしい話かもしれません。検索では出てこず、他には見つからないかもしれません。うれしかったので引用します。 漢陽大学教授李熙秀著『世界文化紀行』のことが、述べられています。

古代新羅人が1200年前以上昔に、西方世界に移住していて、その末裔の人たちにあったというドキュメントが書かれていたのだった。早速に、近所に住んでいる画家の李禹煥さんに、肝腎の部分を読んでいただいた。新羅から移住した人たちは六家族からなる集団で、最初はアラビア半島のオマーンに住み、それから450年ほど後に、サウジアラビアのアル・ヨンという村に移り住んで、今日に至っている。そして、アル。尹《ヨン》村の由来その他が、村の首長によって語られ、系図もあり、朝鮮流の漢方薬の処方箋や、豆から味噌を作っていて、唐辛子を好む習慣も伝え残されていることが記録されていた。・・・

詳しい内容がこの本の第二章にあるとのことで、見てみると詳しく書かれています。845年にアラブ人のイブン・クルドダビーが編纂した『王国と道路総覧』という本に新羅に関する興味深い記事があるとのこと。統一新羅の時代だが、三国時代の新羅の状況に近くて、新羅のことがイスラム世界に知られていたということのようです。朝鮮半島の古図の写真がありますが、写真の詳しいところがわからず、島が多数あるように見え、何の地図だかわかりません。本当だろうかと思います。断定したら間違えそうですが、何かしらのつながりがあったのだろうということです。

話が飛びまくってますが、前提として、ローマ→新羅は、476年に西ローマ帝国が滅亡することにあります。逃れる人たちがいて、その影響が新羅に及んだということです。その逃れてきた人の宝物が古墳に残された。それがトンボ玉などだったということです。これは、ササン朝ペルシャの滅亡が天武天皇につながり、宝物が正倉院に残されたというのと同じ発想です。こうして見ると、国の滅亡が常識外れの移住につながると考えれば、越前・越中・越後の元となる越の国も中国の越の滅亡に関わって日本に逃れてきたとか考えられます。ルートは太平洋岸から四国南を通り、淀川、琵琶湖、北陸を経由して、当時のそれほど先住者のいない地域に落ち着いた?。ゲノム分析がそのルートを示している?。まだまだ妄想ですが。

2022年11月12日土曜日

正倉院の南方の影響

 NHKの日曜美術館で第74回正倉院展の特集がありましたが、その中で 象木﨟纈屛風 (ぞうきろうけちのびょうぶ) がありました。鸚鵡の方ではなく、 下の方の屏風の図をクリックしてください。 象さんの絵が自然です。上部には4羽の鳥、木の上の猿など、日本の風景の中でありそうな感じがしますが、象は日本にはいません。番組で鳥獣戯画や俵屋宗達の図と比較してましたが、あまり似てません。番組で、宮内庁正倉院事務所前所長の西川氏の話では、で足の長さが図では修正されて長くなってるとのこと(動物園の象の前での話)。実際に象を見た人が関係したのではとのことでした。

後の時代では、象の形に正確さが失われてきているというのは、南方の影響が無くなってきたからではと思えてきます。屏風図が朝鮮半島経由とは考えにくいです。

それと、天下の名香木といわれる「全浅香《ぜんせんこう 》」 も出陳されているのを思いだしました。東南アジア産のもので、どのような経路で日本にやってきたか?ということですが、これも南方ルートのように思えます。

前の記事の分布図から直接に南方からやってきた可能性を感じています。
 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

以前にも書いてました。 ササン朝ペルシャの言語と白檀香(法隆寺献納宝物) 

2022年11月11日金曜日

47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源

 日経サイエンス2021年8月号の記事です。日経新聞以下にあります。

渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 

東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。

以上の結果は、渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。

この記事の図です。キャプチャしました。

元図は以下のリンクからです。

この図を見ていて、昔の 奈良県基準の名前相関マップと案外似てると思いました。以下です。再掲します。奈良県基準で1.0、相関が弱いほど白っぽくなります。



この図は奈良県に近いところほど、黒い表示になってます。律令体制が整備され、それによって識別のための名前が作り出されてときの影響(奈良時代の影響)を受けたマップと考えています。ゲノム分析から、渡来人の移動が、太平洋側の四国から始まり、近畿地方、北陸地方に進んだのかと思われ、この痕跡が7世紀にも残っている可能性は十分考えられます。高知県が案外、奈良県に近い理由がわかる気がします。

2022年11月6日日曜日

筑前国嶋郡川辺里戸籍と邪馬台国

 第74回正倉院展で、筑前国嶋郡川辺里戸籍が展示されてました。よく見てなかったのでネット検索で、いろいろ探索しました。

しかし、以前に見てた『正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) 』、丸山裕美子、2010/4/10

この本の口絵写真にありました。文字を読むには酷なサイズですが、 奈良博収蔵品データベース 

にある表装の写真がそれのようです。こちらを拡大すればましになります。今回の出陳されたものとは違うようです。

検索していて、肥君猪手(ひのきみのいて)という人物の名を見ました。正倉院展目録をにらんでも名前が見つかりません。 先の本の81頁に

川辺里五〇戸のうちには、嶋郡の大領肥君猪手の戸も含まれている。大領は郡司のトップである。郡司は大領・少領・主政・主帳で構成されるが、大領と少領は「郡領」ともいい、国造の系譜を引く地方の有力氏族が優先的に任じられることになっていた。「君」という姓は地方の有力貴族であったあかしであるし、「肥」とい氏名は、中部九州の「火」地域(後の肥前・肥後)、つまり阿蘇山にちなむ地域名に由来する。

これから思うのは、遣隋使の時代です。 肥君猪手の祖先が肥国から筑前にやってきて、遣隋使の返使の裴世清が九州に来たときに、対応したと妄想されます。自己紹介で火の国出身であると告げたとき、火とは何かという話になり火山の阿蘇山の話題が出て、その話が、『隋書』の「倭国伝」に記したのではということです。隋や唐の出現で中国の統一され、九州の中心が北九州に変わりつつある時代になっていくのを感じます。時代を遡れば邪馬台国が中九州にあっておかしくないということになります。まだまだ先は長いですが。

以下、自分でも「肥君猪手」を探索したメモです。 国立国会図書館のリサーチ・ナビから「正倉院文書を調べる」を見ていって

奈良時代古文書フルテキストデータベース から「肥君猪手」で検索して以下のPDFが見つかりました。活字版であるので、原版が多分探せば見つかるとは思いますができてません。 

129/657です。肥君猪手は大宝2年で53歳です。ウィキペディアにあるように、白雉元年(650年)頃です。

猪手は、海外交通の要衝である糸島半島の韓亭・引津亭を支配する一族の首長であり、海上商業や製塩にも従事していたと考えられている[1]。
肥君の本拠は、肥後国八代郡の氷川流域であったが、筑前国の嶋郡には6世紀頃に進出してきたと推定されている。

以上、ウィキペディアにのってました。

常識がないので、戸籍とかみても理解不足です。先の本には大宝令の戸令を知ってないといけないとのことです。抜き書きです。
年齢区分で
三歳以下は  「緑」
四歳からは  「小」
十七歳からは 「少」
二十一歳から 「丁」
六十一歳から 「老」
六十六歳以上 「耆」
養老令では変更があり、「緑」→「黄」、「少」→「中(男)」となる。このうち、「丁」(男性)が税金を全額負担する課口で正丁といわれる。男性の場合、「老」は老丁または次丁tおもいい、だいたい正丁の半額の税金を負担し、少は少丁といって、税金の負担は正丁の四分の一であった。

壹 貳 參 肆 伍 陸 漆 捌 玖 拾

2022年11月5日土曜日

第74回正倉院展

 毎年の恒例で出かけてきました。集中力が無くなってきてるのか、後半の文書の部分が流すような感じになってしまいました。やはり、正倉院展は視力5.0の世界の印象でした。当時の人は眼がすごく良かったのではと想像します。若い新興日本の時代を感じます。 今、図録で見てますが、宮内庁のHPにありました。

北倉24 白石鎮子 辰・巳(宮内庁のHPより) 

前回の出陳は1988年となってます。10年ぐらいの周期と聞いたことがありますが、いろいろあります。ローテーションは無いようです。 このレリーフですが、辰・巳が絡み合ってよくわかりません。会場では説明図がありました。想像ですが、糸の絡んだ状態からのイメージで生まれたのかと思います。当時は織物の知識が共通認識としてあったことが考えられます。

北倉97 臈蜜 ろうみつ

種々薬帳に見える薬物。トウヨウミツバチの巣である蝋を丸餅状に固めたもの。薬用としては軟膏の基剤など。(宮内庁のHPより

目録に

奈良時代においては薬用のほかにも蝋型鋳造における原型や艶出し、・・多くの使用法があった。

とあります。もう少し古い時代に入ってきていた可能性もあります。当時の鋳造技術に興味を持ちます。

南倉13 銀壺 

詳細はこちら(宮内庁のHPより)がいいです。

銀製の大型の壺。甲・乙同形のものが一双として伝わっている。表面には騎馬人物や動物を線彫りし、地全体を魚々子〈ななこ〉で埋めている。

魚々子という丸の紋様ですが1個1mm以下です。近づいて見なければわかりませんというのは私のことで、昔の人は遠くからでもこの紋様が見えたということでしょう。似たようなもので、滋賀院門跡で信長寄進の大鏧子(きんす)(きんす)を見ましたが、こんなこまかい模様はありませんでした。役割が違うのかもしれませんが。

ほかの展示されている細かい紋様も現代と基準のレベルが違っていたとすれば当然のような気がします。細かい紋様が好まれた奈良時代には老眼の人間とかいなかったのかと思います。

大歌白絁衫 おおうた しろあしぎぬのさん  (宮内庁のHPより

目録では、

「大歌」とは、古来より宮廷に伝わる伝統歌謡で、宮廷の重要な節会《せちえ》などに際して催され、舞を伴うものもあったという。『東大寺要録』には、大仏開眼会の次第が記されており、それによれば、大歌は、伎楽などの様々な外来の楽舞《がくぶ》に先んじて最初に演じられている。このことからも、大歌が宮廷楽舞の内で重要度が高いものであったことがうかがえる。

側面にスリットがあると解説にあり、展示では見てもわからず、ひょっとして古来の貫頭衣のものを受け継いだものがあるのかもと思いましたが、そうではなさそうです。

伎楽面
呉女  (宮内庁のHPより

呉公  (宮内庁のHPより

目録解説では

伎楽とは、「呉」(中国江南地方)において、諸地域の楽舞を集約して形成された仮面劇で、推古天皇20年(612)に百済の味摩之(みまし)が日本に伝えたとされる。

とあります。本当にそうなのかとは思います。『日本書紀』の仏教伝来と同じく、唐に対する忖度のようなものがあったように思います。呉から直接に伝わったとする方が自然です。呉女の面ですが、讃岐国(現在の香川県)から献納されたことがわかるとあります。呉と近い関係を持っていた地域と想像されます。