第74回正倉院展で、筑前国嶋郡川辺里戸籍が展示されてました。よく見てなかったのでネット検索で、いろいろ探索しました。
しかし、以前に見てた『正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) 』、丸山裕美子、2010/4/10
この本の口絵写真にありました。文字を読むには酷なサイズですが、 奈良博収蔵品データベース
にある表装の写真がそれのようです。こちらを拡大すればましになります。今回の出陳されたものとは違うようです。
検索していて、肥君猪手(ひのきみのいて)という人物の名を見ました。正倉院展目録をにらんでも名前が見つかりません。 先の本の81頁に
川辺里五〇戸のうちには、嶋郡の大領肥君猪手の戸も含まれている。大領は郡司のトップである。郡司は大領・少領・主政・主帳で構成されるが、大領と少領は「郡領」ともいい、国造の系譜を引く地方の有力氏族が優先的に任じられることになっていた。「君」という姓は地方の有力貴族であったあかしであるし、「肥」とい氏名は、中部九州の「火」地域(後の肥前・肥後)、つまり阿蘇山にちなむ地域名に由来する。
これから思うのは、遣隋使の時代です。 肥君猪手の祖先が肥国から筑前にやってきて、遣隋使の返使の裴世清が九州に来たときに、対応したと妄想されます。自己紹介で火の国出身であると告げたとき、火とは何かという話になり火山の阿蘇山の話題が出て、その話が、『隋書』の「倭国伝」に記したのではということです。隋や唐の出現で中国の統一され、九州の中心が北九州に変わりつつある時代になっていくのを感じます。時代を遡れば邪馬台国が中九州にあっておかしくないということになります。まだまだ先は長いですが。
以下、自分でも「肥君猪手」を探索したメモです。 国立国会図書館のリサーチ・ナビから「正倉院文書を調べる」を見ていって
奈良時代古文書フルテキストデータベース から「肥君猪手」で検索して以下のPDFが見つかりました。活字版であるので、原版が多分探せば見つかるとは思いますができてません。
129/657です。肥君猪手は大宝2年で53歳です。ウィキペディアにあるように、白雉元年(650年)頃です。
猪手は、海外交通の要衝である糸島半島の韓亭・引津亭を支配する一族の首長であり、海上商業や製塩にも従事していたと考えられている[1]。
肥君の本拠は、肥後国八代郡の氷川流域であったが、筑前国の嶋郡には6世紀頃に進出してきたと推定されている。
以上、ウィキペディアにのってました。
常識がないので、戸籍とかみても理解不足です。先の本には大宝令の戸令を知ってないといけないとのことです。抜き書きです。
年齢区分で
三歳以下は 「緑」
四歳からは 「小」
十七歳からは 「少」
二十一歳から 「丁」
六十一歳から 「老」
六十六歳以上 「耆」
養老令では変更があり、「緑」→「黄」、「少」→「中(男)」となる。このうち、「丁」(男性)が税金を全額負担する課口で正丁といわれる。男性の場合、「老」は老丁または次丁tおもいい、だいたい正丁の半額の税金を負担し、少は少丁といって、税金の負担は正丁の四分の一であった。
壹 貳 參 肆 伍 陸 漆 捌 玖 拾
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