毎年の恒例で出かけてきました。集中力が無くなってきてるのか、後半の文書の部分が流すような感じになってしまいました。やはり、正倉院展は視力5.0の世界の印象でした。当時の人は眼がすごく良かったのではと想像します。若い新興日本の時代を感じます。 今、図録で見てますが、宮内庁のHPにありました。
北倉24 白石鎮子 辰・巳(宮内庁のHPより)
前回の出陳は1988年となってます。10年ぐらいの周期と聞いたことがありますが、いろいろあります。ローテーションは無いようです。 このレリーフですが、辰・巳が絡み合ってよくわかりません。会場では説明図がありました。想像ですが、糸の絡んだ状態からのイメージで生まれたのかと思います。当時は織物の知識が共通認識としてあったことが考えられます。
北倉97 臈蜜 ろうみつ
種々薬帳に見える薬物。トウヨウミツバチの巣である蝋を丸餅状に固めたもの。薬用としては軟膏の基剤など。(宮内庁のHPより)
目録に
奈良時代においては薬用のほかにも蝋型鋳造における原型や艶出し、・・多くの使用法があった。
とあります。もう少し古い時代に入ってきていた可能性もあります。当時の鋳造技術に興味を持ちます。
詳細はこちら(宮内庁のHPより)がいいです。
銀製の大型の壺。甲・乙同形のものが一双として伝わっている。表面には騎馬人物や動物を線彫りし、地全体を魚々子〈ななこ〉で埋めている。
魚々子という丸の紋様ですが1個1mm以下です。近づいて見なければわかりませんというのは私のことで、昔の人は遠くからでもこの紋様が見えたということでしょう。似たようなもので、滋賀院門跡で信長寄進の大鏧子(きんす)(きんす)を見ましたが、こんなこまかい模様はありませんでした。役割が違うのかもしれませんが。
ほかの展示されている細かい紋様も現代と基準のレベルが違っていたとすれば当然のような気がします。細かい紋様が好まれた奈良時代には老眼の人間とかいなかったのかと思います。
大歌白絁衫 おおうた しろあしぎぬのさん (宮内庁のHPより)
目録では、
「大歌」とは、古来より宮廷に伝わる伝統歌謡で、宮廷の重要な節会《せちえ》などに際して催され、舞を伴うものもあったという。『東大寺要録』には、大仏開眼会の次第が記されており、それによれば、大歌は、伎楽などの様々な外来の楽舞《がくぶ》に先んじて最初に演じられている。このことからも、大歌が宮廷楽舞の内で重要度が高いものであったことがうかがえる。
側面にスリットがあると解説にあり、展示では見てもわからず、ひょっとして古来の貫頭衣のものを受け継いだものがあるのかもと思いましたが、そうではなさそうです。
伎楽面
呉女 (宮内庁のHPより)
呉公 (宮内庁のHPより)
目録解説では
伎楽とは、「呉」(中国江南地方)において、諸地域の楽舞を集約して形成された仮面劇で、推古天皇20年(612)に百済の味摩之(みまし)が日本に伝えたとされる。
とあります。本当にそうなのかとは思います。『日本書紀』の仏教伝来と同じく、唐に対する忖度のようなものがあったように思います。呉から直接に伝わったとする方が自然です。呉女の面ですが、讃岐国(現在の香川県)から献納されたことがわかるとあります。呉と近い関係を持っていた地域と想像されます。
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