2013年10月31日木曜日

地名:大阪

 角川日本地名大事典にありました。・・・大坂とも書いた。本来の地は上町台地北端に位置し、この地に石山本願寺、次いで秀吉の大坂城が築かれ、寺内町および城下町が形成された。本願寺建立前は小坂(おさか)と称し、後には尾坂とも記した。明応5年の連如上人御文に大坂が見えるそうです。おさか→おーさか→大坂かもしれません。江戸時代終わりから明治にかけて大阪になったようです。小西ですが尾西という名字もあります。こにし→おにし→おーにし→大西かもしれません。小を「こ」ではなく「お」と読むことで小→大に変化したのではと思います。「お」の長音化はこの時代からの変化であろうと想像しますが、単に「小」→「大」かもしれません。

地名:宮前町

日曜日に、京都の亀岡市に行ってきました。1869年三重県の亀山市と混同するため、亀山から亀岡に改称されたとのことです。さてタイトルの地名ですが、亀岡市で見ました。Miyazakichoと読むようです。ローマ字を見ないとわかりません。普通は「みやまえ」と読むように思いますが、びっくりしました。確かに見方によっては前の方は先になるのでそうかもしれませんが。名字においてもあるかもしれないと思いました。崎なども本当に岬のイメージかなと思っていたので、前であれば一般的になるのでそうかなとは思います。残念ながら崎と前の相関は今のところわかりません。

2013年10月29日火曜日

「西」グループの分布図

「西」に関連する分布図を合体したものを示します。だらだらと分布図を並べるのもどうかと思い、まとめて見ました。これを見てなにかしら感じる人はおられるとは思います。コメントお願いします。
西岡と西本の分布が似てるように思いました。西岡と西本の相関係数は0.63です。他にもっと相関の高い名字があるので目立ちませんが、まああると思います。
西 + 岡本 → 西岡 + 西本 が成り立ちそうです。西岡基準で相関の高い名字を見ていると
森 + 岡本 → 森岡 + 森本 もありそうで、「本」グループのベースが岡本のような気もします。

2013年10月28日月曜日

名字:西田(方角の名字について)

本と田のグループを比較した時に西田は東の方に広がっていませんでした。
東西南北、の文字がつく名字を探すと
西村、大西、西田、西川、北村、東、中西、西山、小西、南、北川、西、西尾、西岡、西野、西本、北野、北原、西沢、西原、北島、葛西、北山・・・・
となっていて、この中で15/23が西のつく名字、6/23が北、1/23が東と南です。
圧倒的に西が多いです。
個人的に思いつくのは一つしかありません。
平安時代、末法思想(釈迦がなくなってから2000年たつと末法の時代に入り、仏法が衰えるという思想)で、これに基づいて1052年が末法の初年であるとされた。極楽浄土に往生することを理想とする浄土教がひろまった。そのときに藤原頼通が宇治の別荘を寺としたのが平等院である。ということが拾い読みですが、山川日本史に書いてあります。平等院は宇治川のそばにあり、対岸の大吉山風致公園から展望すると、平等院の西側が非常に見晴らしが良いことがわかります。夕日を浄土に重ねることが出来る一等地です。わざわざ宇治で西方浄土を実現した強い意志を感じます。頼通だけでなく当時の人たちは浄土教の影響を受け、方角の西が意識され、結果として、名字の西がダントツで多くなったと思います。浄土教に強く影響を受けた地域に西の名字が多く、それが現在に続いてきたとの想像です。西田の分布を示します。


2013年10月26日土曜日

岡山県に多い名字:三宅・難波・守屋

三宅が多いとの記事の続きです。
屯倉→三宅ということですので、屯倉をウィキペディアで見ました。
・・・ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。・・・
岡山県には難波、守屋という名字も多いです。
山川日本史の20頁に・・・朝廷は朝廷は積極的に屯倉を新設する方針をとり、吉備へは中央から役人を使わし・・直接の支配を強化した・・・とあります。役人は浪速から海路で吉備に入り、屯倉を作った。治安が良くなく、ミヤケ(家屋)を守る人が守屋さんだった。本当だろうか?
「三宅 守屋 墓」で検索すると調べている人がいて、三宅と守屋が関係があることがわかります。

難波・守屋・三宅の分布図です。

2013年10月25日金曜日

「本」グループ、三宅

歴史のことを知らないといけないと思い、「もういちど読む山川日本史」を借りてきました。
最初の方ですが、大和王権の話で、19ページに部民と屯倉についての解説があります。20ページに各地方に朝廷が土地を支配するために設けた屯倉と、豪族の土地である田荘があった。ということです。5世紀後半から6世紀前半(この本での記述で正しいかは私にはわかりません)、吉備、筑紫・武蔵で国造の反乱がおこったと伝えられる。・・・また筑紫と吉備に対して、朝廷は積極的に屯倉を新設する方針をとり、吉備へは中央から役人をつかわして戸籍をつくり、耕作民である田部を登録するなど、直接の支配を強化していった。とあります。
「本」グループの名字ですが、岡山県を中心に広がっているように思います。
参考:名字:岡本、山本、森本、西本、竹本
「本」グループの名字の分布を見て、戸籍を作るときに「本」の名字がこの地域を特徴付けるものとしてあったのかもしれないと想像します。このときの痕跡として残っているのかなと思います。当時の人は「本」から吉備出身を感じたのかもしれません。
「屯倉」では無いですが、三宅の分布を示します。岡山県に多いのも関係があるように思えます。筑紫ではそれほどではないので、実際は吉備に集中していたのかもしれません。


2013年10月24日木曜日

名字:三井

宇佐神宮の関係で思いついたことです。
上宮の北、菱形池のそばにある「御霊水」、ここに三つの井戸がありました。
神事に使用されるであろう三つの霊験あらたかな井戸の意味で三井の名字になったのかもしれないと思いました。宇佐神宮は、一之御殿、二之御殿、三之御殿であり、祓所の灯籠が三つです(思い違いが無ければ)。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法(三なし)としていて、何かわかりませんが、三を意識しているように感じました。

写真の屋根型の覆いが御霊水の井戸です。三つの井戸が見えます。「三井」発祥の地と思わせる雰囲気です。が、早とちりのようです。
三井の分布図を示します。山梨県が多く、九州はそれほどではありません。思い込みは怖いです。

 
 
ネットで、三井広報委員会のホームページがあり、そこに「三井家発祥の地・松阪」とあります。
・・・
「三井」という姓については、信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、
そこに財宝があったため、これを祝して三井姓に改めたと伝えられている。
・・・
宇佐神宮だけではなく、他の地域にも三つの井戸があったようです。「三つの井戸」説でした。
 
三井といえば、滋賀県大津市に三井寺(みいでら)があります。ウィキペディアでは
この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
・・・
中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。
・・・
新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)-三井寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
・・・
とあります。新羅神社が各地にあるそうですが、山梨県にもありました。源氏の山梨県への進出で三井寺からの三井という名字が広まったのかもしれません。山梨県付近に三つの井戸があれば、すっきりして良いのですが。

 

2013年10月23日水曜日

亀山神社

宇佐神宮に行ってきました。由緒ある神社のように感じました。参道の横手に亀山神社があります。社殿の柱の礎石が亀になっていました。楽しくなります。亀山はこの上宮が祀られている小椋山を亀山ということから名付けられたようです。
もちろん神山→亀山の変化だと思います。



参考:名字:亀山、神山

2013年10月19日土曜日

名字:岡本、岡田

名字の分布図の使い回しです。岡本→岡田で岡田の方が拡散していることはわかります。
山田の時には岐阜県から拡散したように見えましたが、そうは見えません。岡本、岡田で見れば、少し岐阜県のところ相対的に大きくなってはいます。それがどうしたと言えばそれだけのことですが。相関係数0.71です。




2013年10月18日金曜日

名字:高木、高井

 高木は岐阜県に分布が多い名字です。高い木ということですが、岐阜県に高い木が多かったからとは思えません。「たかぎ」の変換で高城が出てきます。岐阜県は不破の関のところで、国境でした。あとの時代の多賀城も「たかぎ」と読めないこともありません。軍事拠点の名残かもしれません。不破の関の西側に多賀大社があります。「たか」で何かつながりがあるのかもしれません。
しかしこのあたり妄想のようにも思え、ゆっくり考えることとします。
 訳わかりませんが、山田と同じ時代に広がった名字だとは言えそうです。
 実は高井も岐阜県で分布が多いです。変換の時に「たかゐ」と出てきました。takagiもtakawiも似た発音の名字かもしれないです。元々はtakagwiであったかもしれません(個人的推測です)。
平安時代以前の名字でありそうです。
 以下に高木と高井の分布を示します。相関係数0.63です。


2013年10月17日木曜日

名字:山本、山田

山のつながりです。比較すると山本が西日本が主となる分布に対して、山田は岐阜県を中心とした分布のように見えます。
山本→山田だと思います。山田は地形による名字と言われ、私自身は、山を切り開き、田に変換させた名字と思っていましたが、訂正しないといけません。。
おそらく、新しく田んぼの概念が岐阜県から発生し、広がっていったように感じます。
山本の田ということで山田の名字が始まったと言うことになります。妄想かもしれませんが。

2013年10月15日火曜日

名字:岡田、山田、森田、西田、竹田

前に「本」グループを見てきました。今回は「田」のグループで考えます。同じ条件に合わせるため、岡、山、森、西、竹の田の字のつく名字です。
岡田基準で考えます。相関係数を見ると岡本とは0.71ですが、ほかの4つの田の名字と相関はわかりません。
山田についても同様でわかりません。
森田についても森本と相関が強いです。西田とは0.61です。
西田については何とか森田との相関が0.61で出ています。
竹田については西田と相関係数0.51です。
「本」グループの相関係数0.8ぐらいと比べて「田」グループでは相関は弱くなっています。
「本」から「田」に変化したときに拡散したパターンが異なってしまい。相関が弱くなったと考えます。
相関の低い「田」グループから相関の高い「本」グループが生まれるとは考えられません。
「本」の方が古く、「田」は新しい名字と考えられます。すべてとは言えないかもしれませんが、原則「本」→「田」です。
私自身は、相関係数の値から考えました。分布図からは私には想像できませんが、参考として以下に示します。
「田」の分布は前の「本」の分布に比べ広がっていることはわかります。
「田」の分布から「本」グループの分布が限られた地域に現れるたとしたら、普通は不自然で、その理由を思いつけないのでありえないということだと思います。

すっきりとしない文章ですが、公開することにします。






参考:名字:岡本、山本、森本、西本、竹本

2013年10月14日月曜日

名字:酒井、坂井

酒井との相関ですが、坂井との相関係数0.43です。相関30傑には、境とか堺などはでてきてません。坂井→酒井のような気がしますが、わかりません。


酒井には30傑で酒のつく名字が出てきませんが、坂井には第12位に坂上が出てきます。酒のつく名字が少ないのではっきりとはしませんが、坂グループはかすかにありそうです。

白と黒

日本歴史地名大系に
猪名川上流の山地農村では、酒米・寒天・凍豆腐と栗・薪炭・黒牛を算出し三白三黒の物産と呼ばれた。とありました。これが黒白の対立になっているかもしれません。

今日、美酒発掘展に行ってきました。奈良時代の酒で、いろいろな名称のものがあったようですが、白濁した白酒(しろき)、それに久佐木灰(くさきのはいと読むようです)を入れて濾した黒酒(くろき)とあったので、白と黒の比較はいろいろありそうです。

名字:白川と黒川

2013年10月13日日曜日

名字:岡本、山本、森本、西本、竹本

岡本が古い名字なので(「安田仮説」本で、藤本より前の名字といってます)、これと相関の高い名字も同様に考えられます。
相関係数は岡本を基準に、森本0.85、西本0.84、山本0.82、竹本0.80です。
近畿地方、中国地方、四国地方に分布しているので、「本」グループとして相関が高くなっていると思います。相関係数だけではわかりませんが、分布図でわかりました。
この地域では名字の識別子のような感じで「本」が使われているようです。
分布図が多くなりますが、以下に示します。





2013年10月12日土曜日

「小」の字

小川では普通「オガワ」と読みます。小林では「コバヤシ」ですが、「オバヤシ」と読むこともあります。
「オ」と「コ」の違いは何かと考えています。中世の発音では美しき人→美しい人のようにキ→イの変化が出てきたようなことがネットでありました。これをすすめれば「ko」→「o」とkがとれたのかもと思います。
昔考えていたことですが、「閼伽井」は「アカイ」で、ウィキペディアで閼伽はarghaの閼伽音写と変換の時に出てきました。これがラテン語の"aqua"(水)になったという俗説があるそうです。ということであれば[kwa]→[ka]になるので
「小」も元々「kwo」→「ko」→「こ」
        「kwo」→「wo」→「o」→「お」
かもしれないと妄想します。
「かきくけこ」が元々「kwa kwi kwu kwe kwo」の発音じゃないかとの妄想です。
漢字の「kwa」が日本語で元から「か」に置き換えられたというのかもしれませんが、
日本語での発音で「kw」の可能性も考えたいです。今のところなんだかわかりません。

2013年10月11日金曜日

名字:水野、清水

岐阜県、愛知県の河川に関して河口付近では、水の平野になっているように想像します。水野は地形による名字だといえます。水野の分布図です。

関東地方に移動した場合、今までの例でいえば、「小」がついて小水となります。
しかし奈良時代か平安時代で、おそらく「小水」は避けられる言葉のような気がします。
もちろん単なる推測です。現代においても「小水」は非常に珍しい名字のようです。
逆転の発想で小水→清水となったのではないでしょうか。
あと清は清和源氏の意味を当時の人は感じていて選ばれたのかもしれません。
思い込みで、水野→清水とします。時間がたてば妄想だとなるかもしれません。確認で
清水の分布です。清水は地形から出てきたと言いたくなりますが、違うような気がします。

2013年10月10日木曜日

名字:織田、毛利、今川

相関係数ですが、織田を基準に毛利0.67、今川0.58です。関係がありそうです。
分布図を示します。


なぜ相関があるのか考えてみました。
戦国時代になってからの分布ではなく、もう少し古い時代の影響だと思います。
織田、毛利、今川のグループが同時期に移動しないと同じパターンにはなりえません。
ウィキペディアを見ると
鎌倉幕府成立の時、御家人の制度が出来たようです。1221年の承久の乱で、朝廷側の所領約3000カ所を没収。これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの御家人が没収領地へ移動していった。これを新補地頭というらしいです。日本史上の民族大移動といってる人もいるらしい。
分布パターンはこれを検出してるのかもしれません。違うかもしれません。

2013年10月9日水曜日

名字:河合、川合

岐阜県には、長良川、揖斐川、木曽川など川が合うところが多いので地形から生じた名字と思います。相関係数とは関係ないですが。河合、川合の相関は0.77です。
分布図を示します。


2013年10月8日火曜日

名字:本田、本多

発音が同じつながりです。
本田と本多の相関係数0.39です。田→多です。


2013年10月7日月曜日

名字:石川、前田

あまり意味がない数字ですが、以前に相関係数がマイナスのものを計算したことがありました。思い出して見ていたら、石川と前田で相関係数-0.61というのを見つけました。
石川県は加賀藩で、前田家が藩主です。関係があるかと思いましたが、分布図では前田が西日本、石川が東日本に分布が多いということのようです。

2013年10月6日日曜日

名字:亀山、神山

亀山と神山ですが、相関係数0.47です。
今日、図書館へちょっと寄り、地名語源辞典というのを発見、名字も地名由来のものが多いので関連あると思います。見たら神→亀とありました。相関分析でなくてもわかるんだとがっかりしました。



2013年10月5日土曜日

名字:楠木、楠

クスノキを漢字変換するときに、橘諸兄の子孫と称する・・・と出てきました。確かに橘と楠の相関係数は0.46です。関係ないとは言えません。楠木、楠の関係です。楠木はデータ数が少なく、少し信頼性に欠けるデータかもしれませんが、分布図を作成しました。分布の広がり方を見れば、楠木→楠のように思われます。木がない方が楽になるので当然かもしれません。一文字の名字と二文字の名字と比較していけば確からしさがわかると思います。思いつきでやっているので、すぐ話を忘れてしまうのが難点です。

2013年10月4日金曜日

名字:喜多、北

前の記事で、一文字と二文字についてでしたが、一文字で方角について相関があります。そのときに喜多、北でも相関があります。「安田仮説」本では触れてませんでしたが、データを見れば、喜多・北で相関係数0.72です。後出しになりますが、一応関係がありましたということです。

2013年10月2日水曜日

名字:小泉、和泉、泉

小泉も小林、小池と相関の高い名字です。小泉と小林:0.60、小泉と小池:0.54です。小泉もある程度かたまって分布を示していますが、泉か和泉のどちらかも広がっていて、小池と同じくどの地方からと断定できません。和泉と泉ですが、相関係数の高い名字を見ていると和泉の方が源氏の系統の名字を感じさせますが、泉はそれほどではなく、あとの時代のようです。しかも泉の相関では1文字の名字が多いです(泉:6名字、和泉:3名字)。名字は1文字から2文字になったと思っていましたが、そうとは言えないようです。泉→和泉ではなく、和泉→泉の変化の方が自然に感じます。

追記:10月3日
イズミも文字数1→2→1となったのかもしれません。
諸国郡郷名著好字令というのがあるようです。ネットでありました。
-------
諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で書きましょうという命令である。好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。時は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。
それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのが好字二字令である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。
好字二字令では、3文字の地名はともかくとして1字の地名も無理やり2字になった。これは利便性の向上もさることながら、当時日本から見ると先進国であった唐(中国)にならうという意味があった。中国の地名の多くは「洛陽」や「長安」など良い意味の2字の名称が用いられていたからである。
なお、旧国名については好字二字令より以前に2字に統一しようという動きがあったようである。
中には漢字の当て方に明らかに無理のあるものもあって読みづらいものも散見される。当てた漢字の音に引きずられて読みが変わった例も多い。(例:車(くるま)→群馬(ぐんま)など)
生まれた地名
旧国名
倭→大倭(大和)(現奈良県)
下毛野→下野(現栃木県)
上毛野→上野(現群馬県)
泉→和泉(現大阪府南西部)
無邪志、胸刺、牟射志など→武蔵(現埼玉県、東京都、神奈川県東部)
津→摂津(現大阪府北中部、兵庫県南東部)
近淡海→近江(現滋賀県)
遠淡海→遠江(現静岡県西部)
針間→播磨(現兵庫県南西部)
沖→隠岐(現島根県隠岐諸島)
三野→美濃(現岐阜県南部)
木→紀伊(現和歌山県)
火→肥前、肥後(肥前は現佐賀県、長崎県。肥後は熊本県)
多遅麻など→但馬(現兵庫県北部)
粟→阿波(現徳島県)
など
-------
名字も地名に依存しているものは同様なのだと思います。

名字:小池、池田

前に林→小林と言いましたが、小林と相関の高い名前に小池があります。相関係数は0.88です。
小池のもとの名字が何かと考えましたが、池田かなと思いました。池田は池から田を作り出したという名前のように思います。大がかりな土木工事をイメージさせますが、その子孫が小池ということです。分布図を示します。
池田は各地に広がっていてどこから移動したのかわからないように思います。
苦し紛れですが、林→小林の例より近畿地方からかと想像します。

2013年10月1日火曜日

名字:小笠原、小原、笠原

順番を考えれば笠原→小笠原→小原かなと思います。小笠原と小原は相関係数0.51です。
笠原との相関はランク外です。笠原→小原と笠原→小笠原かもしれません。笠原から広がっているように見えます。「小」は子孫の意味の例になっています。小原はほかの「◇原」からの変化もありますが、係数が0.51なので大きな間違いにはならないと思います。