2015年5月27日水曜日

古代宮都と傾斜地

 鴨川の流れに沿って少し歩きました。川底が階段状になっていて勾配がきつく、京都が傾斜地であることを思い出しました。写真は北向きに見ています。3段ぐらいは見えます。

川の勾配を緩やかにするための床止工(川にある段差のことか)が施されているそうですが、傾斜の程度は東寺の五重塔の頂上と8km上流の北山通りが同じ標高とのことです。
www.pref.kyoto.jp/kamogawa/documents/1175491647483.pdf
京都の地名で「上る」「下る」というものがありますが、北向きに傾斜があることから出てきたそうです。
 古代宮都は排水のことがあり、傾斜地に造られているように思います。長岡京、平城京も傾斜地です。難波宮は台地ですが傾斜地のようなものだと思われます。藤原京は多分違い、失敗作と思います。

2015年5月17日日曜日

仁徳天皇

 NHKのBSプレミアムで
英雄たちの選択「聖武天皇 未完の遷都計画〜最新発掘が明かした大国家構想〜」
を見ました。内容は
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平城京を拠点に仏教に基づく政治を志した聖武天皇。その事跡に、大きな謎とされてきた出来事があった。天平12年(740)、突如平城京を出て、三つの都市を5年にわたって彷徨、これらを新たな都と定めたのだ。唐の「複都制」を目指したという壮大な構想の全貌とは・・・
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です。
 今、聖武天皇が造った都 難波宮・恭仁宮・紫香楽宮、小笠原好彦著、歴史文化ライブラリー、吉川弘文館 を読んでいたのでラッキーでした。NHKの番組では情緒的なところがありましたが、この本ではかなりきちんと書かれています。テレビを見てしまったので読む気が失せてしまってますが。
 この本の中で前期難波宮が天武朝か孝徳朝かの論争があり、孝徳朝の可能性が強くなったとかかれています。難波京の復元にあたって、1970年沢村仁氏は日本書紀の仁徳記と孝徳記の記事を対比し、仁徳朝の京に関する記事は孝徳朝のことをさかのぼって記した可能性が高いとして想定されていると書かれています。
 この部分を忘れてはいけないのでメモっときます。淡海三船の歴史観に従えば、仁と考は関連しそうで、仁徳天皇=孝徳天皇を暗示しているように思えました。

2015年5月10日日曜日

名字:杉山

 松平で思いついたのですが、松の反対:杉、平の反対で山ではないかということです。
松平の反対が杉山です。
 松平がお殿様の名前でおそれおおいということで杉山になったのかもしれません。
杉山の分布です。静岡県に杉が多いわけではないと思います。

2015年5月7日木曜日

松と竹

 昨日、NHKの知恵泉の徳川四天王の録画を見ていて、以前に感じていたことを思い出しました。四天王の一人、井伊直政が武田の家臣団を取り込み、武田の赤備えという朱色で装備を統一していたのを引き継ぎ、井伊の赤備えといわれるようになったとのことです。武田は竹、徳川は松平です。名字で松と竹の関係があるのも、松竹梅だけではなく、徳川に武田が取り込まれたことが影響して、融和の象徴として松と竹があったのかもしれません。鈴木の名字が広がったのも徳川の伸張によると考えられるので、大外れの話ではないように思いますが、名字の分布図を見ると関係がないかもしれません。
   
名字:松田、竹田
名字:松本、竹本、福本、福田

追記:H27.5.8
 松本の分布で他の本と比べて東の方に広がっています。松に徳川のイメージがあるのか、または他の本と比べて新しく出来た名前なのかと思います。奈良時代には松とかは意識されなかったのかもしれません。

2015年5月2日土曜日

孝徳天皇

 名前の立派な天皇です。ウィキペディアによれば、父が茅渟王(ちぬのおおきみ・ちぬのみこ、生没年不詳)、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ、生年不詳)となっています。
茅渟とはクロダイのことらしく、地名では和泉の国の古称のようです。親が地域を表す名称とすれば、大阪・岡山の連合を暗示する人物のように思えます。注目したのは、ウィキペディアの年譜のところに白雉3年(652年)4月 - 戸籍を造った。とあります。庚午年籍に先行して吉備の国で行われた痕跡が本のつく名字につながっているではと考えられれば、古墳時代まで名字の起源がさかのぼらなくても良いように思います。

 徳天皇には、別に都の問題があります。在位中は難波宮に宮廷があり、これが前期難波宮に考えられています。ネットで探せばいろいろ図が出てくると思います。「古代の都はどうつくられたか、吉田 歓著、吉川弘文館」にもあります。私は大阪歴史博物館で飛鳥浄御原宮と前期難波宮の両方の平面図を同一の尺度で見ることが出来ました。前期難波宮は天武天皇の飛鳥浄御原宮よりもスケールが大きな宮殿のように思われ、対外的な交渉なども飛鳥浄御原宮では不便で、どうして飛鳥へ引きこもり見劣りする状態なのか納得できる説明がほしくなります。
WIKIでは
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孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。
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とあり、何なんだろうと思います。考えていたのですが、やはり日本書記に洗脳されているようです。

 唐突ですが、単純に孝徳天皇は西日本を統一した織田信長のような人、天智天皇はその後継者、豊臣秀吉みたいな人、天武天皇は壬申の乱で後を継いだ人で、関ヶ原の合戦を制した徳川家康のような人とイメージしないとだめなような気がしてきました。

庚午年籍
『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。これが日本で最初の全国的な戸籍で「庚午年籍」とされる。畿内はもちろん、西は九州から東は常陸・上野まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。


写真は後期難波宮跡、基壇が大極殿、その右の緑の原っぱが朝堂院、ビルのあたりが朱雀門のようです。前期もほぼ同じとのことです。

 
追記(H27.5.19)
前期難波宮は唐尺が使われているようです。唐の都をモデルにしていたようで、孝徳天皇は唐と友好的な関係を求めており、中大兄皇子はその後白村江で唐と戦うことになり、外交路線の対立があったのかもしれません。