2015年5月2日土曜日

孝徳天皇

 名前の立派な天皇です。ウィキペディアによれば、父が茅渟王(ちぬのおおきみ・ちぬのみこ、生没年不詳)、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ、生年不詳)となっています。
茅渟とはクロダイのことらしく、地名では和泉の国の古称のようです。親が地域を表す名称とすれば、大阪・岡山の連合を暗示する人物のように思えます。注目したのは、ウィキペディアの年譜のところに白雉3年(652年)4月 - 戸籍を造った。とあります。庚午年籍に先行して吉備の国で行われた痕跡が本のつく名字につながっているではと考えられれば、古墳時代まで名字の起源がさかのぼらなくても良いように思います。

 徳天皇には、別に都の問題があります。在位中は難波宮に宮廷があり、これが前期難波宮に考えられています。ネットで探せばいろいろ図が出てくると思います。「古代の都はどうつくられたか、吉田 歓著、吉川弘文館」にもあります。私は大阪歴史博物館で飛鳥浄御原宮と前期難波宮の両方の平面図を同一の尺度で見ることが出来ました。前期難波宮は天武天皇の飛鳥浄御原宮よりもスケールが大きな宮殿のように思われ、対外的な交渉なども飛鳥浄御原宮では不便で、どうして飛鳥へ引きこもり見劣りする状態なのか納得できる説明がほしくなります。
WIKIでは
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孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。
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とあり、何なんだろうと思います。考えていたのですが、やはり日本書記に洗脳されているようです。

 唐突ですが、単純に孝徳天皇は西日本を統一した織田信長のような人、天智天皇はその後継者、豊臣秀吉みたいな人、天武天皇は壬申の乱で後を継いだ人で、関ヶ原の合戦を制した徳川家康のような人とイメージしないとだめなような気がしてきました。

庚午年籍
『日本書紀』には670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。これが日本で最初の全国的な戸籍で「庚午年籍」とされる。畿内はもちろん、西は九州から東は常陸・上野まで造籍の実施されたことを示す。氏姓を確定する台帳の機能を果たしたものと思われる。


写真は後期難波宮跡、基壇が大極殿、その右の緑の原っぱが朝堂院、ビルのあたりが朱雀門のようです。前期もほぼ同じとのことです。

 
追記(H27.5.19)
前期難波宮は唐尺が使われているようです。唐の都をモデルにしていたようで、孝徳天皇は唐と友好的な関係を求めており、中大兄皇子はその後白村江で唐と戦うことになり、外交路線の対立があったのかもしれません。


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