2022年12月25日日曜日

水の語源

 「ミヅ」と読むようです。 『日本語の起源 ――ヤマトコトバをめぐる語源学』、近藤健二、筑摩新書(2022/1/10)を借りてきました。

日本語の起源は古代中国語にあった。古代中国語音と古代日本語(ヤマトコトバ)の音の対応を数多くの実例に基づき検証。日本語の古層をめぐる新説を提唱する。

とのことです。最初の方に水のことが書いてあります。『日本国語大辞典』に12説あるとのことで、簡単に紹介されています。どれも苦し紛れの説に思えますが、 漢字起源説をとる著者も付け加えるとのことです。

ミヅ(水)
ミ 碧(ヒャク)「あおみどり」
ヅ 水(スイ)「みず」
◆碧水(ヘキスイ)青い水

と示されています。ここでは発音記号はうまく表記できないので省略しています。ヘキスイを中国語の読みでミズと発音したとのようです。説得力が感じられませんが、水を「スイ」と読んでたのは確かそうには思います。私も説を付け加えます。 元々「スイ」と発音していたのを丁寧に言うため、{御「スイ」}と言い始めます。「ミスイ」です。これが「ミズ」に変化しました。今は「ミズ」では丁寧さがなくなり、普通になってしまい、さらに「オミズ(御水)」になっていると考えられます。漬け物が「オミオツケ」になっていったようなものです。将来、「ミオミズ」になれば、証明されたことになりそうです。

しかし、漢字起源説は古い時代まで遡れるかはわかりませんが有力な説です。訓読みと思っていても実は音読みだったということも充分ありえます。

追記:R05.01.01
初詣で、おみくじを見ました。これも「くじ」に「み」がついて、さらに「お」が追加されたものです。水も、もともと神事では神聖なものであったはずなので「ミスイ」のような気が、ますますしてきます。

追記(R050218)

水の読みですが、「みづ」とありました。ローマ字では「midu」で、「mizu」ではありません。

みづでは
(平安時代)みどぅ
(南北朝時代)みどぅ
(室町時代)みず
(江戸時代)みず
とあります。dからzに変化したということになります。

『知らなかった! 日本語の歴史』浅川哲也、東京書籍 (2011/8/12)

「じ・ぢ・ず・づ」の仮名は「四つ仮名」といいます。室町時代の中頃から「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが難しくなり、そのため四つ仮名の混乱が生じます。江戸時代の元禄年間(一六八八〜一七〇三)までには「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を発音上で区別することが一部の方言を除いてできなくなっていました。

発音の違いに基づく仮名の書き分けが不可能になると、四つ仮名は「仮名遣い」の問題になります。仮名遣いとは正書法としての知識の問題です。四つ仮名の仮名遣いを取り上げた早い例としては『仮名遣近道抄《かなづかいちかみちしょう》』(寛永二年・一六二五)があります。

この中に「ず」と「づ」の例がありました。
「見ず(みず)」と「水(みづ)」です。

「現代仮名遣い」では、原則「づ」を使わないので「みず」で良いのですが、その前の時代は「みづ」で、平安時代以前に「みず」と発音していたことがあったのかということになります。



2022年12月22日木曜日

光明皇后の経済力

 前回に関連して、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話で思ったことです。 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、

「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面を含めて評価する必要がある。

ということです。光明皇后の皇后宮、どこかで読んだのですが、出所がはっきりとはしませんが、ネットで以下にありました。

旧長屋王邸が740年の恭仁遷都までの一時期に皇后宮になったこと 

長屋王の変のあと、高市皇子から長屋王に引き継がれた「功封・功田」はどうなったか疑問に思いますが、光明皇后が長屋邸あとに入ったようです。これと、以前に正倉院展 で見た 相模国封戸租交易帳 

がつながります。舎人親王とかに混じって、光明皇后の名前がありました。関連していると思います。長屋王の変のあと、光明皇后に「功封・功田」の引き継がれたことが想像されます。長屋王の変のあとの処分もほとんどありません。つまり、長屋王の家政機関がそっくり引き継がれているかもしれません。問題は、光明皇后と長屋王の関係では、血統では長屋王が優位にあります。簡単には引き継げないと思われます。そのために、光明皇后の権威付けが必要になって、皇太后に立后されたと想像します。しかも藤原不比等からも功田が光明皇后に引き継がれたはずです。光明皇后のいろんな事業も功封・功田があったから成立しており、藤原氏も名目、光明皇后に移転された権益を失いたくないと考えているはずです。その後の藤原仲麻呂も光明皇后の経済力をバックにしています。奈良時代の政争も、国家的な相続問題が争族問題になってたのかもしれません。

2022年12月21日水曜日

藤原仲麻呂と乙巳の変のつながり

 長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、第四章の仲麻呂の政策の「2父祖三代の顕彰ー『藤家家伝」と要領律令」のところからの発想です。

功臣としての藤原氏
第四の特色は自らの祖先の顕彰である。それは、単に先祖の奉仕を顕彰するにとどまらず、仲麻呂一族(藤原恵美家)の特別扱いと表裏の関係にあることが重要である。・・・ 729年の長屋王の変までは、高市皇子のような壬申の乱の功績(壬申年功)が最大の国家的な功績として評価されていた。だが、以後は「乙巳年功」(鎌足)、「修律令功」(不比等)が国家に対する「大功」として評価されるようになる(天平宝字元年一二月壬子条)。

鎌足の功績評価は、①孝徳朝での難波朝廷への奉仕(慶雲四年四月壬午条)、②天智朝の近江令編集(天平宝字元年閏八月壬戌条)、③皇極朝の乙巳の変(天平宝字元年一二月壬子条)のように、鎌足の死後に重点が変わり、乙巳の変での評価は、仲麻呂執政期以降に定まった。

これは、大きな国家政策の転換に対応する。つまり、知太政官事任命に象徴される天武系王族の尊重(太政官の総括者として天武天皇の子孫が任命される慣行)や「壬申の功臣」たる大伴氏や東国外五位郡司層の優遇(壬申の乱で活躍した東国豪族には準貴族としての外五位が与えられた)から、忠実な律令官僚で準皇族たる藤原氏への重用に変わり、聖武天皇の王権強化と律令制の充実という方向に転換したのである。

このあと、省略しますが、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話のあとに、

仲麻呂および『藤氏家伝』に象徴される鎌足・不比等についての情報操作=「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面(恵美家の藤原氏内部での本宗家扱い、および太政大臣・近江国司・功封などの世襲化)を含めて評価する必要がある。

仲麻呂の課題は、ポスト壬申の乱体制の構築であり、それが藤原氏の地位強化につながることを意識していた。

引用が長くなりますが、以下重要と思われるところ、勝手に太字にしてます。

さらに述べるならば、従来の通説は、基本的に仲麻呂により創出された功臣たる鎌足・不比等像に従ってきた。だが、仲麻呂による祖先顕彰を除いて考える必要がある。必ずしも藤原氏は当初から有力な氏族ではなく、律令を熟知した有能な官僚としての藤原氏の抜擢や藤原氏天皇の擁立など、王権側の選択により権力を獲得してきたことを強調しておきたい。

仲麻呂の鎌足・不比等の祖先顕彰ですが、問題は長屋王の変です。父の藤原武智麻呂が変の首謀者と見なされていることがあります。当時の一般的な理解では長屋王の変について、正当性を主張できにくいような環境であったと思います。藤原氏の汚点となっていて、なんとかしなければと、仲麻呂は考えたと思います。藤原氏には藤氏家伝があり、藤原武智麻呂のことが記されていますが、長屋王の変のことは抜け落ちていて藤原氏側の見解は不明ですので推測になります。

長屋王の変がはじめてではなく、それで類する話は過去にもあったとして、③皇極朝の乙巳の変を創作したのではと想像します。長屋王を皇位をねらう蘇我入鹿に、藤原武智麻呂を防ぐ鎌足に見立てているようです。

また大化の改新で、評の代わって郡にしたのも鎌足以来とすれば、郡の正当性をさかのぼることができ、仲麻呂の曾祖父以来の正当性を主張できるメリットはあります。かなりの改竄が孝徳天皇の時代にありそうですが、文句をいう人がいなかったといいうことかもしれません。そうすると②天智朝の近江令編集とかも本当にあったのかなどと疑問がどんどん出てきます。

2022年12月18日日曜日

安積親王の急死と藤原仲麻呂

図書館から借りた 『正倉院の謎―激動の歴史に揺れた宝物 (中公文庫)』、由水常雄、1987/10/10 の天平中期の政治状況が書かれています。 長屋王の変のあと、天然痘の蔓延で藤原四兄弟が死没します(737年?)。

そしてその翌年、聖武天皇と橘氏系の県犬養広刀自との間に生まれた皇位継承者にふさわしい安積親王をさしおいて、聖武帝と光明皇后との間に生まれた皇女の阿倍内親王が、突然に皇太子に立てられた。もちろん、光明皇后を頂点とする藤原氏一族の危機感が、気弱な聖武帝を説得して、このような無理な立太子を強行させたのであろう。

そして、天平一四年(七四二)、皇族としてはうるさい存在であった皇位継承権を持つ塩焼王が、仲麻呂が留守官を務めていた平城宮で捕らえられて、突然、四人の女嬬とともに伊豆三島に流配された。・・・

また、同一六年一月には、聖武帝の難波宮行幸に同行した聖武帝唯一の男王であった安積親王が、これまた仲麻呂が留守官を務めていた恭仁宮に身を休めた時に急死するという、謎の事件が起こっている。この事件については、当時も、仲麻呂が暗殺したのではないかという疑惑がもたれていたらしい。

暗殺説でそうかと思いますが、他の本を探してみると、 『藤原仲麻呂と道鏡: ゆらぐ奈良朝の政治体制』鷺森浩幸、吉川弘文館 (2020/8/01)では、暗殺説はとらないとのことです。

『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)では、安積親王の急死について、

従来、この事件については、仲麻呂による暗殺説が根強い(横田健一説など)。藤原氏の権力確立のために、安部皇太子の強力なライバルであり大きな障害であった安積親王を除いたとする説である。急死であること、橘氏や大伴氏による確立の可能性、親王の誕生が皇太子基王の誕生と同年で、のちに皇太子が早世したため、次の王子誕生で有利な立場を得るため光明立后を焦ったこと、などが理由として挙げられてきた。

だが、暗殺の直接的な証拠はなく、藤原氏が積極的に皇統を断絶させようとすることもあり得ない。ビタミン欠乏症たる脚気は、足のむくみやしびれが特徴で、心臓機能の低下・心不全を併発する場合には最悪死に至る。私見では安積親王の死去に事件性はないと考える。 暗殺説の前提には、阿倍皇太子よりも安積親王が皇位継承では支持されるはずという暗黙の男子優先の考えがあるが、聖武天皇は明らかに光明皇后の娘である阿倍皇太子を次期天皇としており、・・・藤原氏を母とする王系が優先されるという流れは、すでに聖武天皇の母、宮子の時から一貫している。

安積親王が恭仁京に戻ったのは「脚病」(脚気)ということは続日本紀にあります。 続いて、事件性はないというものの

しかし、安積親王急死の影響は大きかった。以後聖武天皇の直系男子が途絶え、阿倍皇太子に対抗する旧氏族の皇嗣《こうし》擁立候補が統一を欠くようになったからだ。

とあります。つまり、事件性はなくても、結局は藤原氏が有利な情勢になっているということだと思います。

安積親王の急死は、聖武天皇にとっては衝撃であったと想像します。一月に起こってますが、二月には駅鈴・内外印(天皇御璽と太政官印)を難波宮に移しています。また仲麻呂の留守官には別人が任ぜられ、仲麻呂の名前は消えていて見当たりません。聖武天皇は不審の念をもったことは確かと思えます。

2014年正倉院展に出陳されされた聖武天皇の仕込み杖を思い出しました。いざという時のため、身につけていたのだろうと思われます。多分こんなんだったというイメージです。 

weblio辞書から 漆塗鞘御杖刀 (うるしぬりのさやのごじょうとう)


2022年12月8日木曜日

『日本書紀』区分論と改竄の可能性

 前の記事で改竄があったならば、その痕跡があるはずだと考えられます。 コタツ記事みたいですが、ウィキペディアの日本書紀の区分論に

『日本書紀』は内容・語句・音韻など様々な観点から各巻をいくつかのグループに分類できることがわかっており、多くの学者が区分論を展開している。以下、主として坂本太郎と森博達の著作を参考にまとめる。・・・

区分論において近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。森は歌謡などを表記する万葉仮名に用いられている漢字音の音韻の分析によって『日本書紀』を2つのグループ(α群とβ群)に大別することができることを論証した(30巻には歌謡がなく、区分していない)。森の学説は近年の区分論における大きな進展であり、区分論に触れる際にはそれをどのように評価する場合でも大抵の場合言及される[72]。

森による分析でα群に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音(漢音)に依拠しており、β群のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している[73]。逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていないこと[74]、日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している[74]。さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている[75]。

α群とβ群ですが、 ウィキペディアの表では 森の区分で

  • 1-13巻がβ群
  • 14-21巻がα群
  • 22-23巻がβ群
  • 24-27巻がα群
  • 28-29巻がβ群

となってます。巻だけではわかりにくいですが、

  • 卷第三には神武東征があります。
  • 卷第二十二は聖徳太子の時代です。
  • 卷第二十四は皇極天皇の時代で乙巳の変があります。

乙巳の変はα群になります。神武東征や聖徳太子の話はβ群にあり、書紀編纂の初期の状態を残していると考えられます(漢文に厳密ではない部分)。巻第二十四はα群にあたり、この部分が藤原仲麻呂の書き換えた部分と考えられます(漢文の知識があり、和習をきらった?)。長屋王の変の正当性を主張するために書き換えた部分と考えます。確定ではありませんが、可能性は充分あります。

聖徳太子の部分は、β群で古い部分と考えています。藤原仲麻呂は書き換えにくかったところと思います。

神武東征はβ群ですが、古い部分と考えています。大伴旅人が関与したということは、以下のようなところにあります。
大伴旅人と神武東征の話 
鹿児島の古代から神武東征の話 

あと、ウィキペディアのα群の説明で

日本の習俗に精通していないことがわかることなど・・・

とありますが、藤原仲麻呂が意図的に日本の習俗を無視してるのではと思えます。

2022年12月7日水曜日

藤原仲麻呂と『日本書紀』改竄の可能性

 『正倉院の謎』由水常雄、魁星出版 (2007/6/30)を借りたものの読んでませんでした。返却前に読んだだけです。

これまで、正倉院は、光明皇太后が聖武天皇の遺愛の品々を、東大寺の大仏に奉献したことに端を発すると考えられてきた。たしかにうわべの事実はそのとおりであった。しかし、この光明皇太后の奉献という名目が覆い隠している事実をさらけ出してみると、そこには驚くべき剣術棒数の渦巻きが、露呈してきたのであった。聖武天皇の七七忌は、聖武天皇が創建した東大寺において法要されたのではなく、藤原氏の氏寺の興福寺において挙行され、文武百官はすべてこれに隣席した。その当日の六月二十一日、宮中の留守をついて、宮中に厳重に保管されていたーーーいろいろな品々が書いてあるが省略しますーーー、ことごとく宮中から運び出して、大仏に奉献したのであった。・・・これらの行政の重要な荘厳具を宮中から運び出して、東大寺に施入してしまったということは、いったい何を意味するのであろうか。いうまでもなくそれは、藤原仲麻呂が光明皇太后をテコにして実行した藤原氏起死回生のクーデターを示す何ものでもない。正倉院は、藤原仲麻呂と光明皇太后の無血革命を成功させた一大モニュメントであった。

藤原仲麻呂の独断と専横の内容が書かれていますが、天皇御璽印のことが出てきます。 「東大寺封戸処分書勅書」に押印されている天皇御璽印がほかの文書とサイズが違っているとのことです。「東大寺献物帳」では8.7×8.7センチに対し、「押勝東大寺勅書所捺」の方は9.7×9.65センチで、1センチほど大きいとのことです。これが偽印であると主張されています。三文判とかではないので、やはり偽物と思うのが普通と思われます。私に偏見があるかもしれませんが、恵美押勝(藤原仲麻呂)は手段を選ばない人のイメージを持ちます。

ということは、藤原仲麻呂が『日本書紀』の書き換えも行った可能性があります。以前に「乙巳の変」のことで、律令制を重んじるはずが、公然とクーデターのような話が出てきて、その前後とのつながりが不自然なのも納得できます。当時において長屋王の変の正統性を主張するために乙巳の変を創作したと考えられます。

乙巳の変と長屋王の変 

2022年11月29日火曜日

数字の読み方、日本語・中国語

 中国語と日本語は別物だという人がいました。 中国語と日本語は似てる部分がありように思いました。数の読み方です。

漢字
日本語イチ二ーサンシーゴー
中国語イーァー
リィャン
サンスーウー
ロクシチ
ヒチ
ハチキュウジュウ
リィゥチーバージゥシー

「二」は後ろに単位が付く場合「两(リィャン)」に変化します。 「二」「五」「九」「十」は違うように見えます。「五」ですが、見かけはまったく違うようですが、「呉」の日本語発音では、「ゴ」「クレ」です。これが中国語では「ウー」です。数字の中国語読みにある「ウー」も昔は「ゴ」のように思えてきます。

読み方は中国伝来のように思えます。

以下のところには、詳しく書いてあります。 世界の言語の数体系 

日本語の数体系(複雑度順位66で下の方)では

この数体系は中国語から輸入されたもので、100 未満は発音以外同じです。日本古来の数体系とは異なります。

とあります。

漢数字の元々の読み方はすべて呉音だが、四、九の呉音「し」、「く」は「死」、「苦」に通じ、また七の呉音「しち」は「いち」と紛らわしいので、置き換えられた。

とあり、修正されていますが、普通に気にせず使っているように思えます。

しかし、中国語の数体系(複雑度順位65)より広東語の数体系(複雑度順位67)を見ると、こちらの方が日本の数え方に似ているように思われます。また上海語の数体系(複雑度順位56)には、「二」を「二ー」と発音しています。良いとこ取りをすれば、日本語の数体系になりそうですが、カタカナの発音では不正確なのでおおよその話になりそうです。

ニューエクスプレスプラス 広東語《CD付》、飯田真紀、白水社 (2019/12/15)を借りてきて見ると、「五」の発音は「んー」となっていて、ピンインは「ng6」で、鼻濁音です。数字の6は声調で普通より低めの音になるようです。「ゴー」と近い発音に思えます。

数字の発音は漢数字の伝来と一体となってるのは確かそうです。

「いち」「にー」「さん」・・・は音読みとは思いもしませんでした。

しかし、「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」・・・こちらはまったく異なり、訓読みのようです。中国伝来よりは古そうです。

広東語については、日本語と似ていると前に言ってました。我ながら忘れるのが速いです。 広東語と台湾語

*「七」を「ヒチ」と読むのは方言らしいです。グーグル検索では「ひちふくじん」でも出てきますが、かな変換では「しちふくじん」でないと出てきません。

2022年11月27日日曜日

47都道府県人のゲノムと邪馬台国

 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

の中に図があります。現代人のゲノム解析から生成されたものです。この図でどの時代まで遡れるかということですが、名字の分布図と似ているので、八世紀までは(律令制の確立とともに名字が生まれたと考えています)充分戻れると思われます。この時代では近畿地方は南は四国、北は北陸の方に交易圏か文化圏のようなものが広がっていて、瀬戸内海の方にはそれほどでもないように見えます。現代は内海は安全に航行できますが、古代で統一された国とかでなければ、海賊などで危険であったように想像されます。外海の方が邪魔のない分スムーズに移動できることが起因してように思います。邪馬台国の近畿説は無理がある気がします。

現時点では、やはり邪馬台国は九州にあったとします。さすれば、近畿地方はどうだったかということになります。邪馬台国と同様な別の国があった(ほかの地域にも)と考えるのが良さそうに思われます。

以下は、妄想の世界です。
邪馬台国は魏との関係がありました。当時は、蜀・魏・呉の三国志の時代です。邪馬台国と対立する国は、魏と対立していた呉と関係を求めたことが想像されます。蜀はちょっと遠そうなので除外します。


想像図


適当に呉の位置を入れました。一つは広島県の呉市です。「くれ」し なので呉の国と国と関係あると思っています。「」し でなく訓読みなので関係ないだろうとも思われますが、「はせ」を長く続く谷の地域から「長谷」と読む例があります。 長谷寺 

この地域が、呉に関係していて、発音では「くれ」となっていたのでだとの推測です。全然わかりませんが、「くれ」の読みについて、以下に少しありました。

Re: 呉市の名前の由来を 教えてください - くれナビ なんでも質問箱 

近畿地方にも入れて見ました。「呉」の瓦が発見されているので可能性は充分あります。 檜隈寺跡の「呉」と書かれた瓦 

北陸の越は、図がさびしいので入れました。時代が違っていて問題ありそうで×をつけて表示しています。

以下は遺伝子の都道府県別分布のあるところです。念のため残しておきます・

https://honkawa2.sakura.ne.jp/images2/7720e2.gif

日経サイエンス2021年8月号 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源


2022年11月22日火曜日

三関の位置と琵琶湖ルート

 前の記事からの思いつきです。 

淀川から琵琶湖経由で北陸に至る経路を琵琶湖ルートと勝手にしてますが、天武天皇の時代には重要であったと思われます。三関が琵琶湖ルートを防衛してるように見えてきました。三関は東国との境界にあります。ウィキペディアからの三関の説明ですが、

三関(さんげん、さんかん)とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された3つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の3つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。

三関の意味ですが、ウィキペディアでは

古代、三関は天皇の交代など政情不安の際交通を遮断のため、堅く閉められていた[1]。
[1]^ “道路”. 関・関所、古代. 国土交通省 (2013年11月6日). 2016年11月29日閲覧。

とのことのようです。天智天皇の近江京では、そうかもしれませんが、その後に遷都された都の位置からはどうだろうと思われます。古代において琵琶湖経由が重要な交通路であって、それを防衛するために元々設置されたのが三関ではないかと思えてきます。新羅など大陸側への交通路を遮断されるのを天武天皇がおそれたのではという気がします。とくに愛発関など後に廃止されますが、古代にはまだまだ日本海ルートが重要視されていたのではと想像します。

文章だけではわかりにくいので、ウィキペディアの図を見てください。 

三関のおよその位置を示した地図 

2022年11月21日月曜日

『ローマ文化王国ー新羅』の可能性

 「正倉院」を検索していて

 『正倉院の謎』由水常雄 から、この本の著者の別の本を図書館から借りてきました。
 『ローマ文化王国ー新羅』由水常雄、新潮社(2001/7/5)
ローマと新羅を結びつけたかなりマニアックな本です。「あとがき」で、

著者が原稿を書き終えて編集者に手渡した時に、「要するにこれは独断と偏見による見解でしょう」という強烈な一撃を喰った。当然に予測される反応ではあったが、まさか編集者から最初の一撃を喰うとは、考えたこともなかったので、大変なショックを受けた。・・・

と書かれています。当ブログもこの人を目標にめげずにやっていきたいとは思いました。

アマゾンの説明では

4世紀~6世紀の新羅地方の遺跡から、ローマ文化の遺物が次々と発掘されている。中国文化の傘下にあった東アジアにおいて、新羅がローマ文化を持っていたとする著者の説を、実際に出土した遺物から検証する。

とのことです。途中の詳細な検討の話は省きますが、この本の終章で、ローマから新羅へどのように伝わったかについて述べられています。ステップルートによって伝わったと考えられるとのことです。本当にそうだろうかと思います。強く主張できる根拠はありませんが、海洋ルートの可能性があるかもしれないと思いました。

グーグルマップにで想像図を書いてみました。


                                                                    海洋ルートの図

朝鮮半島のマークは慶州で、ローマ文化の遺物とされる人面があるトンボ玉が発見されたところです。大陸からでなく海路で日本海側を伝って行けそうです。赤のコースです。時代は下りますが、天武天皇の時代、多禰島と関係がありました。茶色の線が考えられます。一方、新羅使が日本へ来ていたりしています。そのルートは、淀川から琵琶湖を経由します。船のルートです。北陸へ抜けるところは陸地がありますが、そのあと、山陰側を海路で新羅に向かう赤の線のコースがありえたと思います。この時代、出雲の国や紀の国が重用されていたことが、うなずけます。唐に対抗して、対外的な交渉を目指していた日本の重要なコースになっていたと思われます。その素地が古代よりあったのではということになります。

前の記事、 47都道府県人のゲノムが明かす 
日本人の起源 の図がありましたが、すでに天武天皇より古い時代において、琵琶湖経由のルートが成立していたことが考えられます。天武天皇がペルシャ人ということも、「ローマ文化王国ー新羅」からすればありえます。

力説されてましたいるトンボ玉のイメージがわかないと思われますが、以下に見つかりました。
(写真とかは下記にありました。
ネックレス
トンボ玉、
これは以下の記事にあります。
読書メモ「ローマ文化王国-新羅」由水常雄 ケルト王のトンボ玉 ユーラシア交易ルート )

由水常雄氏のこの本の「あとがき」に、新羅からアラビア半島に移住した人たちがいると書かれています。いかがわしい話かもしれません。検索では出てこず、他には見つからないかもしれません。うれしかったので引用します。 漢陽大学教授李熙秀著『世界文化紀行』のことが、述べられています。

古代新羅人が1200年前以上昔に、西方世界に移住していて、その末裔の人たちにあったというドキュメントが書かれていたのだった。早速に、近所に住んでいる画家の李禹煥さんに、肝腎の部分を読んでいただいた。新羅から移住した人たちは六家族からなる集団で、最初はアラビア半島のオマーンに住み、それから450年ほど後に、サウジアラビアのアル・ヨンという村に移り住んで、今日に至っている。そして、アル。尹《ヨン》村の由来その他が、村の首長によって語られ、系図もあり、朝鮮流の漢方薬の処方箋や、豆から味噌を作っていて、唐辛子を好む習慣も伝え残されていることが記録されていた。・・・

詳しい内容がこの本の第二章にあるとのことで、見てみると詳しく書かれています。845年にアラブ人のイブン・クルドダビーが編纂した『王国と道路総覧』という本に新羅に関する興味深い記事があるとのこと。統一新羅の時代だが、三国時代の新羅の状況に近くて、新羅のことがイスラム世界に知られていたということのようです。朝鮮半島の古図の写真がありますが、写真の詳しいところがわからず、島が多数あるように見え、何の地図だかわかりません。本当だろうかと思います。断定したら間違えそうですが、何かしらのつながりがあったのだろうということです。

話が飛びまくってますが、前提として、ローマ→新羅は、476年に西ローマ帝国が滅亡することにあります。逃れる人たちがいて、その影響が新羅に及んだということです。その逃れてきた人の宝物が古墳に残された。それがトンボ玉などだったということです。これは、ササン朝ペルシャの滅亡が天武天皇につながり、宝物が正倉院に残されたというのと同じ発想です。こうして見ると、国の滅亡が常識外れの移住につながると考えれば、越前・越中・越後の元となる越の国も中国の越の滅亡に関わって日本に逃れてきたとか考えられます。ルートは太平洋岸から四国南を通り、淀川、琵琶湖、北陸を経由して、当時のそれほど先住者のいない地域に落ち着いた?。ゲノム分析がそのルートを示している?。まだまだ妄想ですが。

2022年11月12日土曜日

正倉院の南方の影響

 NHKの日曜美術館で第74回正倉院展の特集がありましたが、その中で 象木﨟纈屛風 (ぞうきろうけちのびょうぶ) がありました。鸚鵡の方ではなく、 下の方の屏風の図をクリックしてください。 象さんの絵が自然です。上部には4羽の鳥、木の上の猿など、日本の風景の中でありそうな感じがしますが、象は日本にはいません。番組で鳥獣戯画や俵屋宗達の図と比較してましたが、あまり似てません。番組で、宮内庁正倉院事務所前所長の西川氏の話では、で足の長さが図では修正されて長くなってるとのこと(動物園の象の前での話)。実際に象を見た人が関係したのではとのことでした。

後の時代では、象の形に正確さが失われてきているというのは、南方の影響が無くなってきたからではと思えてきます。屏風図が朝鮮半島経由とは考えにくいです。

それと、天下の名香木といわれる「全浅香《ぜんせんこう 》」 も出陳されているのを思いだしました。東南アジア産のもので、どのような経路で日本にやってきたか?ということですが、これも南方ルートのように思えます。

前の記事の分布図から直接に南方からやってきた可能性を感じています。
 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 

以前にも書いてました。 ササン朝ペルシャの言語と白檀香(法隆寺献納宝物) 

2022年11月11日金曜日

47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源

 日経サイエンス2021年8月号の記事です。日経新聞以下にあります。

渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 

東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。

以上の結果は、渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。

この記事の図です。キャプチャしました。

元図は以下のリンクからです。

この図を見ていて、昔の 奈良県基準の名前相関マップと案外似てると思いました。以下です。再掲します。奈良県基準で1.0、相関が弱いほど白っぽくなります。



この図は奈良県に近いところほど、黒い表示になってます。律令体制が整備され、それによって識別のための名前が作り出されてときの影響(奈良時代の影響)を受けたマップと考えています。ゲノム分析から、渡来人の移動が、太平洋側の四国から始まり、近畿地方、北陸地方に進んだのかと思われ、この痕跡が7世紀にも残っている可能性は十分考えられます。高知県が案外、奈良県に近い理由がわかる気がします。

2022年11月6日日曜日

筑前国嶋郡川辺里戸籍と邪馬台国

 第74回正倉院展で、筑前国嶋郡川辺里戸籍が展示されてました。よく見てなかったのでネット検索で、いろいろ探索しました。

しかし、以前に見てた『正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) 』、丸山裕美子、2010/4/10

この本の口絵写真にありました。文字を読むには酷なサイズですが、 奈良博収蔵品データベース 

にある表装の写真がそれのようです。こちらを拡大すればましになります。今回の出陳されたものとは違うようです。

検索していて、肥君猪手(ひのきみのいて)という人物の名を見ました。正倉院展目録をにらんでも名前が見つかりません。 先の本の81頁に

川辺里五〇戸のうちには、嶋郡の大領肥君猪手の戸も含まれている。大領は郡司のトップである。郡司は大領・少領・主政・主帳で構成されるが、大領と少領は「郡領」ともいい、国造の系譜を引く地方の有力氏族が優先的に任じられることになっていた。「君」という姓は地方の有力貴族であったあかしであるし、「肥」とい氏名は、中部九州の「火」地域(後の肥前・肥後)、つまり阿蘇山にちなむ地域名に由来する。

これから思うのは、遣隋使の時代です。 肥君猪手の祖先が肥国から筑前にやってきて、遣隋使の返使の裴世清が九州に来たときに、対応したと妄想されます。自己紹介で火の国出身であると告げたとき、火とは何かという話になり火山の阿蘇山の話題が出て、その話が、『隋書』の「倭国伝」に記したのではということです。隋や唐の出現で中国の統一され、九州の中心が北九州に変わりつつある時代になっていくのを感じます。時代を遡れば邪馬台国が中九州にあっておかしくないということになります。まだまだ先は長いですが。

以下、自分でも「肥君猪手」を探索したメモです。 国立国会図書館のリサーチ・ナビから「正倉院文書を調べる」を見ていって

奈良時代古文書フルテキストデータベース から「肥君猪手」で検索して以下のPDFが見つかりました。活字版であるので、原版が多分探せば見つかるとは思いますができてません。 

129/657です。肥君猪手は大宝2年で53歳です。ウィキペディアにあるように、白雉元年(650年)頃です。

猪手は、海外交通の要衝である糸島半島の韓亭・引津亭を支配する一族の首長であり、海上商業や製塩にも従事していたと考えられている[1]。
肥君の本拠は、肥後国八代郡の氷川流域であったが、筑前国の嶋郡には6世紀頃に進出してきたと推定されている。

以上、ウィキペディアにのってました。

常識がないので、戸籍とかみても理解不足です。先の本には大宝令の戸令を知ってないといけないとのことです。抜き書きです。
年齢区分で
三歳以下は  「緑」
四歳からは  「小」
十七歳からは 「少」
二十一歳から 「丁」
六十一歳から 「老」
六十六歳以上 「耆」
養老令では変更があり、「緑」→「黄」、「少」→「中(男)」となる。このうち、「丁」(男性)が税金を全額負担する課口で正丁といわれる。男性の場合、「老」は老丁または次丁tおもいい、だいたい正丁の半額の税金を負担し、少は少丁といって、税金の負担は正丁の四分の一であった。

壹 貳 參 肆 伍 陸 漆 捌 玖 拾

2022年11月5日土曜日

第74回正倉院展

 毎年の恒例で出かけてきました。集中力が無くなってきてるのか、後半の文書の部分が流すような感じになってしまいました。やはり、正倉院展は視力5.0の世界の印象でした。当時の人は眼がすごく良かったのではと想像します。若い新興日本の時代を感じます。 今、図録で見てますが、宮内庁のHPにありました。

北倉24 白石鎮子 辰・巳(宮内庁のHPより) 

前回の出陳は1988年となってます。10年ぐらいの周期と聞いたことがありますが、いろいろあります。ローテーションは無いようです。 このレリーフですが、辰・巳が絡み合ってよくわかりません。会場では説明図がありました。想像ですが、糸の絡んだ状態からのイメージで生まれたのかと思います。当時は織物の知識が共通認識としてあったことが考えられます。

北倉97 臈蜜 ろうみつ

種々薬帳に見える薬物。トウヨウミツバチの巣である蝋を丸餅状に固めたもの。薬用としては軟膏の基剤など。(宮内庁のHPより

目録に

奈良時代においては薬用のほかにも蝋型鋳造における原型や艶出し、・・多くの使用法があった。

とあります。もう少し古い時代に入ってきていた可能性もあります。当時の鋳造技術に興味を持ちます。

南倉13 銀壺 

詳細はこちら(宮内庁のHPより)がいいです。

銀製の大型の壺。甲・乙同形のものが一双として伝わっている。表面には騎馬人物や動物を線彫りし、地全体を魚々子〈ななこ〉で埋めている。

魚々子という丸の紋様ですが1個1mm以下です。近づいて見なければわかりませんというのは私のことで、昔の人は遠くからでもこの紋様が見えたということでしょう。似たようなもので、滋賀院門跡で信長寄進の大鏧子(きんす)(きんす)を見ましたが、こんなこまかい模様はありませんでした。役割が違うのかもしれませんが。

ほかの展示されている細かい紋様も現代と基準のレベルが違っていたとすれば当然のような気がします。細かい紋様が好まれた奈良時代には老眼の人間とかいなかったのかと思います。

大歌白絁衫 おおうた しろあしぎぬのさん  (宮内庁のHPより

目録では、

「大歌」とは、古来より宮廷に伝わる伝統歌謡で、宮廷の重要な節会《せちえ》などに際して催され、舞を伴うものもあったという。『東大寺要録』には、大仏開眼会の次第が記されており、それによれば、大歌は、伎楽などの様々な外来の楽舞《がくぶ》に先んじて最初に演じられている。このことからも、大歌が宮廷楽舞の内で重要度が高いものであったことがうかがえる。

側面にスリットがあると解説にあり、展示では見てもわからず、ひょっとして古来の貫頭衣のものを受け継いだものがあるのかもと思いましたが、そうではなさそうです。

伎楽面
呉女  (宮内庁のHPより

呉公  (宮内庁のHPより

目録解説では

伎楽とは、「呉」(中国江南地方)において、諸地域の楽舞を集約して形成された仮面劇で、推古天皇20年(612)に百済の味摩之(みまし)が日本に伝えたとされる。

とあります。本当にそうなのかとは思います。『日本書紀』の仏教伝来と同じく、唐に対する忖度のようなものがあったように思います。呉から直接に伝わったとする方が自然です。呉女の面ですが、讃岐国(現在の香川県)から献納されたことがわかるとあります。呉と近い関係を持っていた地域と想像されます。

2022年9月7日水曜日

松本清張の古代史

 松本清張の著作は多く、マニアでなければわかりにくいものがあります。 図書館で見つけたガイドブックの本で概略を知ることができました。

『文豪ナビ 松本清張 (新潮文庫)』、新潮社 (2022/8/1)

分野別にまとめられ、その中の古代史の部分で五冊紹介されています。(選・解説:原田実)

  1. 『陸行水行』―別冊黒い画集 (2) (文春文庫)
  2. 『古代史疑』(中公文庫)
  3. 『天皇と豪族 清張通史(4)』 (講談社文庫)
  4. 『私説古風土記』(松本清張全集〈55〉邪馬台国.私説古風土記、文藝春秋 (1984/4/25)か?)
  5. 『ペルセポリスから飛鳥へ』日本放送出版協会 (1988/5/1)

注目すべき5の解説コピーです。

戒厳令下のイランを歩いた古代史紀行 『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)

清張の推理小説『火の路』(単行本一九七五年)には、現奈良県明日香村飛鳥の古代石造物はイランから伝来したゾロアスター教に基づいて造営されたと唱える人物が登場する。NHKテレビは『清張古代史をゆく』という番組でこの説をとりあげた。
一九七九(昭和五十四)年に出た本書は、その番組の取材のためのイラン紀行を記した「旅の章」とゾロアスター教古代日本伝来説の検証を記した「考察の章」からなる書き下ろしである。
「旅の章」について、清張によるイラン現地のさまざまな遺跡・史跡に関する記述に時は、その周到な調査ぶりに驚くしかない。古代イランの地下式横穴墓と南九州における地下式横穴古墳との比較、紀元前のアケメネス朝ペルシアのキュロス大王の墳墓と高句麗の広開土王(三七四~四一二)の墳墓(将軍塚)のピラミッド状構造の比較など、イラン現地で確認した東アジアの古代文化の類似に関する観察も数多く記されている。 「それらの記述からは、ゾロアスター教古代日本伝来説は、清張による古代文明東西 交通の構想の一部にすぎないことがうかがえる。
「考察の章」について、清張は『日本書紀』に、ゾロアスター教を国教としていたササン朝ペルシアからの渡来人に関すると思われる記述があることに注目する。飛鳥の古代石造物は彼らがもたらした技術と思想によって作られたというわけだが、その造営施工者と、飛鳥のゾロアスター教系文化の終焉のいきさつについて、本書では『火の路』の登場人物の説とは異なる回答を用意しており、読み比べても面白い。
なお、本書「旅の章」は一九七八(昭和五十三)年九月の記録だが、当時のイランはイスラム革命(一九七九年1月)前夜の世情不安期で、本書でも戒厳令下での取材の困難さが随所で語られている。そうしたルポルタージュ的要素も本書の魅力と言えよう。

はらだ・みのる
一九六一(昭和三十六)年、広島県生れ。古代史研究家。著書に『江戸しぐさの正体―教育をむしばむ偽りの伝統』『オカルト化する日本の教育』『偽書が揺るがせた日本史』などがある。

以前に『火の路』を読み始めて挫折しましたが、『ペルセポリスから飛鳥へ』の方を読むべきだったかと思いました。

2022年9月2日金曜日

七夕伝説と椿井文書

 彦根の隣・米原に残る七夕伝説?があり、以前にどうだろうと思っていました。以前のブログで何か書いてるかと探しましたが無いようです。

滋賀県米原市の琵琶湖岸付近に「七夕伝説」の残る地域がある。「天野川」という名の川をはさんで、「彦星塚」と呼ばれる石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、「七夕石」と言い伝えられる自然石が、それぞれ両岸の神社に祭られている。天文研究者は「天野川を『天の川』に見立て、彦星塚を牽牛星のアルタイルに、七夕石を織女星のベガとして配置したのではないか」と指摘。13日には、七夕石のある蛭子(ひるこ)神社(同市世継)で短冊祈願祭が営まれる。  彦星塚は、天野川左岸の朝妻神社(同市朝妻筑摩)にある高さ約1・9メートルの石造宝篋印塔。七夕石は、右岸の蛭子神社にある高さ60センチほどの自然石をそのまま置いたとみられる石塚。2つは、川をはさんで約500メートルの距離にある。

蛭子神社に残る縁起によると、蛭子神社がかつて「世継神社」と呼ばれていた頃の祭神は雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)。平安時代初期に興福寺の僧が2人を合祀したとある。また、彦星塚を星川稚宮皇子の墓、七夕石を朝嬬皇女の墓とする言い伝えもあり、天野川という川の名前などもあって、この地に七夕伝説が生まれた。
七夕伝説残る近江・米原の「天野川」両岸に彦星と織姫祭る神社。13日に短冊祈願祭 

石造宝篋印塔は鎌倉時代以降のものですのでそれほど古くはありません。しかし七夕伝説に意味があるのだろうと思っていました。

最近、以下の本を見ていきさつを知りました。『椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) 新書』、馬部隆弘、中央公論新社 (2020/3/17) 182頁からです。

世継の七夕伝説
『米原町史』に中世史料として収録される「筑摩大神之紀」は、滋賀県米原市朝妻筑摩の筑摩神社に伝わっている。永禄一〇年(一五六七)に奈良春日若宮の神主がまとめた筑摩神社の社伝を、天正九年(一五八一)に椿井懐義が写し、さらに文化一〇年(一八一三)に椿井政隆が再度写したという体裁をとる。
これと一連で偽作されたものとして、すでに第二章で触れた「筑摩社並七ヶ寺之絵図」も存在する。これは、入江内湖における筑摩村と磯村の漁業権をめぐる対立を背景として、筑摩村が有利になるように中世の筑摩村を誇張して描いたものであった。
さらに椿井政隆は、筑摩村以外の村々にも自身が作成したものを浸透させるため、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」と関連づけながら様々な仕掛けをしている。例えば、周辺諸村に「七ヶ寺」を設けることで、各寺に関する椿井文書はそれぞれの村に受け入れやすくなる。『近江町史』の口絵に掲載される宇賀野村の「富永山歓喜光寺絵図」はその典型で、そこには「筑摩七箇寺随一」との位置づけもなされている[図3]。
また、湖北は彼がこだわりを持っていた息長氏の出自の地なので、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」では近世に朝妻川とも天の川とも呼ばれていた川に「息長川」の名称を与えている。そのほか、音が通じる「朝嬬皇女墳」を朝妻川沿いの世継村に設置する。さらにその対岸にあたる。 朝妻村には「星河稚宮《ほしかわのわかみや》皇子墳」を設置している。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、七夕伝説と重ね合わせようとしたのである。
享保一九年(一七三四)成立の『近江輿地志略』には、「朝妻川」あるいは「天川」とみえるが七夕に関する記述はなく、蛭子神社にあたる世継神社も祭神不詳とされる。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は写本も多くみられ、当地に早くから根付いていた。そのため、現在は旧世継村の蛭子神社にある自然石が「七夕石」、旧朝妻村の朝妻神社にある石塔が「彦星塚」と呼ばれるに至っている。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」に描かれる墳墓は実在しないため、いつしか境内にあった適当なものを代わりにあてるようになったのであろう。
問題はこれにとどまらなかった。『近江町史』編纂に伴う史料調査で、蛭子神社から天正一五年(一五八七)に「世継六右衛門定明」が記したとされる「世継神社縁起之事」と題したも のが発見されたのである(近江町は合併して現在米原市)。昭和六二年(一九八七)九月四日の 『中日新聞』(滋賀版朝刊)と同月七日の『毎日新聞』(滋賀版朝刊)の記事では、「星河稚宮皇子」と「朝嬬皇女」の悲恋を知った興福寺の僧が二人を偲んで合祀したのが七夕の由来になったという「世継神社縁起之事」の内容を報じている。とりわけ『中日新聞』の表題は、「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」と衝撃的である。しかし、椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており(図2参照)、「息長川」の名称も登場することから、発見されたものは椿井文書とみて間違いない。
さらに、平成一〇年(一九九八)度から平成一五年度にかけて、滋賀県立大学は「筑摩社並七ヶ寺之絵図」を参照しながら尚江千軒遺跡の調査を行い、平成一六年にその成果を公刊した。 平成二二年三月一日にはその調査を踏まえたシンポジウムが米原市教育委員会の主催で開催され、同時に「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の展示も行われた。こうして「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は、当地において広く市民権を得るようになった。
それ以降、蛭子神社が所蔵する「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の写と「世継神社縁起之事」に基づく七夕伝説が、盛んに語られるようになっている。毎年夏になると、この二つの椿井文書を用いて、古くから地元に伝わる伝説として地元の小学生に解説する様子が新聞の記事となっている。その実態は表5のとおりである。大人が勝手に楽しむ分には構わないが、子供にすり込むのは教育上いかがなものかと思われる。

図や新聞記事の表は省略しています。

220頁にも

そのほか枚方市から交野市にかけては、七夕伝説なるものも広まりつつある。・・・

七夕伝説も古代から何らかのつながりがあると思い込んでましたが、問題だったと思いました。いろいろと遠回りをしてます。この本では椿井文書は、大和・山城・河内・伊賀・摂津・近江に及ぶらしく注意が必要とのことです。

2022年8月13日土曜日

中国と日本の往復

 『船と古代日本』茂在寅男、PHP研究所 (1987/3/4)の124頁に 中国側資料の記録の紹介があります。

前210年 秦始皇帝による蓬莱島への徐福の派遣
57年 倭の奴国王の後漢入貢、光武帝これに印綬を授ける
107年 倭の国王帥升ら後漢に入貢し、生口160人を献上
239年 邪馬台国の女王卑弥呼、帯方郡に使を遣わす。魏の明帝、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を与える
266年 倭の女王壱与、西普へ使を遣わし、入貢する
369年 倭軍朝鮮に出兵、任那に日本府を置く
391年 倭軍、百済・新羅を破り、高句麗と戦う
413年 倭王讃、東普に使を遣わして貢献
438年 倭王讃の弟珍、宋に使を遣わして貢献、安東将軍となる

対応する『日本書紀』の記述がはっきりしません。中国との関係を意図的に無視してると思います。対中関係で不利にならないように考えているとは思いますが、よくわかりません。
海上交通とか考えていた時のメモ書きです。

2022年8月3日水曜日

金刀比羅宮(ことひらぐう)のクンビーラ

 NHKの「先人たちの底力 知恵泉「松本清張」前編」で、 69歳の時に、飛鳥文化の起源をペルシアに求め、イランまで出かけた映像とか紹介されていました。 そうだったと思い出しました。番組では みうらじゅん氏のゴム蛇の話で、ゴムワニから、クンビーラがでてきました。 インドの神様のクンビーラが日本に来て、こんぴらさんになり、そこでゴムワニが売られているとのことです。

宮比羅(くびら)は、仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。梵語ではクンビーラ(Kumbhīra)またはキンビーラ(Kimbhīra、「何を恐れることがあろう」の意)で、『月灯三昧経』のサンスクリット原本ではKimpiloと綴られる[1]。十二神将としては宮比羅大将ともいう。(ウィキペディア)

金毘羅信仰 クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)では海上交通の守り神の金毘羅大権現として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現として祀られていた。

この話から、金刀比羅宮の成立は七世紀ぐらいとして、飛鳥の起源が、ペルシア→インド→日本につながってきます。 まだまだな話ですが。

2022年7月28日木曜日

難波と飛鳥を結ぶ幹線ルート

 『飛鳥への招待』、飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会、中央公論新社 (2021/3/25) の「難波と飛鳥を結ぶ幹線ルート」を見ています。

その中に図があります。以下です。

図 推古時代の推定経路


推古天皇が実在したとは考えていませんが、『日本書紀』六〇八年(推古一六年)、中国・隋の使者、裴世清が来日したとしている推定路が示されています。もう一つが、『日本書紀』の六一三年(推古二十一年)の記される「大道」です。岸説と安村説の二説が紹介されています。
岸説

そのルートを難波宮から真南にのびる難波大道と、これに直交する竹内街道とみて、さらに二上山南側の竹内峠を越え、横大路を通って飛鳥へ入ると推定しました。このルートが定説になっています。

安村説

推古天皇の時代にはまだ難波宮はまだ難波宮はなく、難波大道が造られたのも七世紀中頃以降であることが、発掘調査でわかりました。さらに、難波宮の下層で見つかった建物跡は、正確に南北に沿って建てられたのではなく、上町台地の地形に合わせてやや斜行していることも判明しました。 これらのことから安村氏は、起点は難波津ではあり、上町台地の地形に合わせて斜行する道路を考え、四天王寺(大阪市天王寺区)辺りで南東に曲がり、旧大和川に沿う通称「渋川道」を通り、龍田道で大和に入り、斑鳩から太子道を飛鳥へと向かうルートを想定しています。この道沿いには、四天王寺や法隆寺(斑鳩町)など古代寺院が立ち並んでいました。したがって、こちらのルートが蓋然性が高いといえます。

推古天皇が実在しないのに、これらのルートの意味があるのかとなりますが、『日本書紀』が想定した古代ルートとして、難波宮から飛鳥に至る経路は孝徳天皇と天武天皇の関係を示していると妄想されるので意味あると思います。最初は法隆寺経由であったのが、岸説の直線的な経路に変化したかもと思いました。

2022年7月27日水曜日

飛鳥宮の位置

 『飛鳥への招待』、飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会、中央公論新社 (2021/3/25) の「飛鳥と藤原京の道路計画」の図に飛鳥宮があります。 以下です。


飛鳥宮位置関係の図

図では飛鳥川があるのですが、コピーで消えてしまいました。

東西道路を東に向かうと、川原寺と橘寺の間を通過して、飛鳥宮の「エビノコ郭」西門に着きます。エビノコ郭は、天武¥持統天皇の宮だった飛鳥浄御原宮の大極殿との説もある宮殿です。東西道路は、九六年の調査の後も側溝が数カ所で確認され、谷を埋めて道路を造っていることから、下ツ道まで一直線につながっていたと考えられます。道路に面して寺院や宅地が配置され、高官の邸宅跡とされる五条野向イ遺跡とも進入路で結ばれていました。

新古の山田道では迂回することになり、新しい道が必要になり、

そこで造られたのが、今回の東西道路です。下ツ道から飛鳥宮まで、幅一二メートル一直線の道路、まさに飛鳥宮へのメインストリートとして、斉明天皇の時代に造られたと考えられています。

エビノコ郭の意味がわからなかったのですが、この図から、西よりやってくる客人のための儀礼の場であることが理解できます。もちろんこの場所が手狭で、後に藤原京に発展していくのも当然に思えます。

2022年7月26日火曜日

三内丸山遺跡の第26号掘立柱建物跡

 『文化財が語る日本の歴史』、會田 康範 (編集), 下山 忍 (編集), 島村 圭一 (編集)、雄山閣 (2022/5/31)

この本に縄文時代のことが書かれています。 大型の六本柱の遺跡、第26号掘立柱建物跡です。これに、建物説と巨木柱列説があり、復元されたものは折衷案として屋根なしの3層構造のものになったそうです。 大田原潤説では、巨大柱列を、二至二分(夏至冬至春分秋分のこと)に関係し、

4.2mの等間隔に配置された3本2列の長方形に配置されたその柱穴の長軸方向は、夏至の日の出、冬至の日の入りの方位を示す(図1)。対角線の一方は東西を指し、春分、秋分の日の出の、日の入りの方位となっている。夏至には2列の間に日が上り(図2)、冬至には2列の間に日が沈むことが確認される。・・・・

なお、二至二分に関する事例を大田原の事例を元に著名な三内丸山遺跡に求めたが、ほかにも同様に認められる縄文遺跡は多々存在する。・・・

そのように二至二分に関する事例は枚挙に暇がなく、偶然の一致を脱しているとの判断は強ち間違いではなさそうだ(小林編2005)。

図1,2(『文化財が語る日本の歴史』33頁)


掘立柱建物だろうとは思いますが、天文学的な知識が古い時代からあったとして、文明の発生と同じ時代のような気がしてきます。

2022年7月20日水曜日

最古の文字は弥生時代か?

『ここまで解けた 縄文・弥生という時代』山岸良二、河出書房新社 (2022/5/30)の中に 上記のタイトルで書かれています。 文明の存在するところに「文字」があるはずなので、参考になると思っています。

以下149ページの抜き書きです。

島根県田和山遺跡は弥生時代の多重環濠集落遺跡として著名なもので、山丘上からは数百個の「石つぶて」が出土し、この集落がなんらかの防御施設だったのではないかといわれています。しかも、山上では九本柱穴遺構が発見され、なんらかの「祭祀」「儀礼」的 建物だったと推測されていました。

この遺跡から弥生時代中期後半(紀元前後)の「板状石硯」「硯状石製品」が発見され、その表面に墨書で漢字のような文字が書かれていたことが二〇二〇(令和二)年、研究者 からの指摘で判明したのです。「子」か「午」という字と、「戊」か「戌」という字になる のではないかという説が出されています。

しかし、赤外線観測では明確な字形は検出されていないため、この文字説を疑問視する意見も残っています。従来、日本での最古文字例は福岡県や三重県で出土した紀元後二~三世紀代土器に書かれていた「墨書」のような字が指摘されていました。

日本では現在まで石川県八日市地方、大阪府古曽部、芝谷、奈良県唐古・鍵、兵庫県七日市、福岡県三雲・井原遺跡など全国各地で、この「板状石硯」「硯状石製品」が二〇〇点以上発見されています。近い将来、従来説より二〇〇年古い明瞭な「文字」が発見される可能性は残っています。

日経新聞で、「弥生時代」「すずり」で検索すると出てきました。
高知で弥生時代のすずりか 四国初、文字の使用示唆?
吉野ケ里でも弥生期すずり 有明海沿岸でも文字使用か
以下略。 新聞をよく見てませんでした。高知県とかもあるので、各地域で文字による交流が行われていた可能性を感じます。

「板石硯」に関して、以下の講習会があったようです。

風土記の丘教室「弥生時代における「文字使用」の可能性と「板石硯」について ~田和山遺跡など島根県出土資料を中心として~」 2022年7月16日(土)  14:00~16:00


従来、日本列島における「文字使用」の開始は、5世紀頃(古墳時代中期)とされるのが通説でした。しかし、『魏志倭人伝』では中国王朝や「諸韓国」との外交や貿易(「賜遺之物」)において「文書を伝送し」と明記されているように、文書でのやり取りは漢と倭の交渉の開始から行われた可能性があります。 一方で、「文字使用」の可能性の証拠として、これまで「砥石」とされた遺物の一部に、「板石硯」や「研石」の可能性が高いものがあります。今回は、主に漢代の板石硯や研石の使用痕との比較から、弥生時代日本での硯の使用の可能性について解説します。 また、田和山遺跡出土の板石硯の裏面にある「文字」から、当時「簡讀」が列島にも存在した可能性についてもお伝えします。

[参考]かんとく【簡牘 jiǎn dú】(世界大百科事典 第2版)
 中国で紙が普及する以前に用いられた書写材料。竹のふだを竹簡,木のふだを木牘といい,両者をあわせて簡牘とよぶ。