2022年12月21日水曜日

藤原仲麻呂と乙巳の変のつながり

 長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話 『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)で、第四章の仲麻呂の政策の「2父祖三代の顕彰ー『藤家家伝」と要領律令」のところからの発想です。

功臣としての藤原氏
第四の特色は自らの祖先の顕彰である。それは、単に先祖の奉仕を顕彰するにとどまらず、仲麻呂一族(藤原恵美家)の特別扱いと表裏の関係にあることが重要である。・・・ 729年の長屋王の変までは、高市皇子のような壬申の乱の功績(壬申年功)が最大の国家的な功績として評価されていた。だが、以後は「乙巳年功」(鎌足)、「修律令功」(不比等)が国家に対する「大功」として評価されるようになる(天平宝字元年一二月壬子条)。

鎌足の功績評価は、①孝徳朝での難波朝廷への奉仕(慶雲四年四月壬午条)、②天智朝の近江令編集(天平宝字元年閏八月壬戌条)、③皇極朝の乙巳の変(天平宝字元年一二月壬子条)のように、鎌足の死後に重点が変わり、乙巳の変での評価は、仲麻呂執政期以降に定まった。

これは、大きな国家政策の転換に対応する。つまり、知太政官事任命に象徴される天武系王族の尊重(太政官の総括者として天武天皇の子孫が任命される慣行)や「壬申の功臣」たる大伴氏や東国外五位郡司層の優遇(壬申の乱で活躍した東国豪族には準貴族としての外五位が与えられた)から、忠実な律令官僚で準皇族たる藤原氏への重用に変わり、聖武天皇の王権強化と律令制の充実という方向に転換したのである。

このあと、省略しますが、長屋王家や藤原氏に与えられた「功封・功田」の経営とかの話のあとに、

仲麻呂および『藤氏家伝』に象徴される鎌足・不比等についての情報操作=「功臣伝の創出」は、単なる名誉ではなく実利的な側面(恵美家の藤原氏内部での本宗家扱い、および太政大臣・近江国司・功封などの世襲化)を含めて評価する必要がある。

仲麻呂の課題は、ポスト壬申の乱体制の構築であり、それが藤原氏の地位強化につながることを意識していた。

引用が長くなりますが、以下重要と思われるところ、勝手に太字にしてます。

さらに述べるならば、従来の通説は、基本的に仲麻呂により創出された功臣たる鎌足・不比等像に従ってきた。だが、仲麻呂による祖先顕彰を除いて考える必要がある。必ずしも藤原氏は当初から有力な氏族ではなく、律令を熟知した有能な官僚としての藤原氏の抜擢や藤原氏天皇の擁立など、王権側の選択により権力を獲得してきたことを強調しておきたい。

仲麻呂の鎌足・不比等の祖先顕彰ですが、問題は長屋王の変です。父の藤原武智麻呂が変の首謀者と見なされていることがあります。当時の一般的な理解では長屋王の変について、正当性を主張できにくいような環境であったと思います。藤原氏の汚点となっていて、なんとかしなければと、仲麻呂は考えたと思います。藤原氏には藤氏家伝があり、藤原武智麻呂のことが記されていますが、長屋王の変のことは抜け落ちていて藤原氏側の見解は不明ですので推測になります。

長屋王の変がはじめてではなく、それで類する話は過去にもあったとして、③皇極朝の乙巳の変を創作したのではと想像します。長屋王を皇位をねらう蘇我入鹿に、藤原武智麻呂を防ぐ鎌足に見立てているようです。

また大化の改新で、評の代わって郡にしたのも鎌足以来とすれば、郡の正当性をさかのぼることができ、仲麻呂の曾祖父以来の正当性を主張できるメリットはあります。かなりの改竄が孝徳天皇の時代にありそうですが、文句をいう人がいなかったといいうことかもしれません。そうすると②天智朝の近江令編集とかも本当にあったのかなどと疑問がどんどん出てきます。

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