2022年12月18日日曜日

安積親王の急死と藤原仲麻呂

図書館から借りた 『正倉院の謎―激動の歴史に揺れた宝物 (中公文庫)』、由水常雄、1987/10/10 の天平中期の政治状況が書かれています。 長屋王の変のあと、天然痘の蔓延で藤原四兄弟が死没します(737年?)。

そしてその翌年、聖武天皇と橘氏系の県犬養広刀自との間に生まれた皇位継承者にふさわしい安積親王をさしおいて、聖武帝と光明皇后との間に生まれた皇女の阿倍内親王が、突然に皇太子に立てられた。もちろん、光明皇后を頂点とする藤原氏一族の危機感が、気弱な聖武帝を説得して、このような無理な立太子を強行させたのであろう。

そして、天平一四年(七四二)、皇族としてはうるさい存在であった皇位継承権を持つ塩焼王が、仲麻呂が留守官を務めていた平城宮で捕らえられて、突然、四人の女嬬とともに伊豆三島に流配された。・・・

また、同一六年一月には、聖武帝の難波宮行幸に同行した聖武帝唯一の男王であった安積親王が、これまた仲麻呂が留守官を務めていた恭仁宮に身を休めた時に急死するという、謎の事件が起こっている。この事件については、当時も、仲麻呂が暗殺したのではないかという疑惑がもたれていたらしい。

暗殺説でそうかと思いますが、他の本を探してみると、 『藤原仲麻呂と道鏡: ゆらぐ奈良朝の政治体制』鷺森浩幸、吉川弘文館 (2020/8/01)では、暗殺説はとらないとのことです。

『藤原仲麻呂-古代王権を動かした異能の政治家』仁藤敦史、中央公論新社 (2021/6/21)では、安積親王の急死について、

従来、この事件については、仲麻呂による暗殺説が根強い(横田健一説など)。藤原氏の権力確立のために、安部皇太子の強力なライバルであり大きな障害であった安積親王を除いたとする説である。急死であること、橘氏や大伴氏による確立の可能性、親王の誕生が皇太子基王の誕生と同年で、のちに皇太子が早世したため、次の王子誕生で有利な立場を得るため光明立后を焦ったこと、などが理由として挙げられてきた。

だが、暗殺の直接的な証拠はなく、藤原氏が積極的に皇統を断絶させようとすることもあり得ない。ビタミン欠乏症たる脚気は、足のむくみやしびれが特徴で、心臓機能の低下・心不全を併発する場合には最悪死に至る。私見では安積親王の死去に事件性はないと考える。 暗殺説の前提には、阿倍皇太子よりも安積親王が皇位継承では支持されるはずという暗黙の男子優先の考えがあるが、聖武天皇は明らかに光明皇后の娘である阿倍皇太子を次期天皇としており、・・・藤原氏を母とする王系が優先されるという流れは、すでに聖武天皇の母、宮子の時から一貫している。

安積親王が恭仁京に戻ったのは「脚病」(脚気)ということは続日本紀にあります。 続いて、事件性はないというものの

しかし、安積親王急死の影響は大きかった。以後聖武天皇の直系男子が途絶え、阿倍皇太子に対抗する旧氏族の皇嗣《こうし》擁立候補が統一を欠くようになったからだ。

とあります。つまり、事件性はなくても、結局は藤原氏が有利な情勢になっているということだと思います。

安積親王の急死は、聖武天皇にとっては衝撃であったと想像します。一月に起こってますが、二月には駅鈴・内外印(天皇御璽と太政官印)を難波宮に移しています。また仲麻呂の留守官には別人が任ぜられ、仲麻呂の名前は消えていて見当たりません。聖武天皇は不審の念をもったことは確かと思えます。

2014年正倉院展に出陳されされた聖武天皇の仕込み杖を思い出しました。いざという時のため、身につけていたのだろうと思われます。多分こんなんだったというイメージです。 

weblio辞書から 漆塗鞘御杖刀 (うるしぬりのさやのごじょうとう)


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