2021年3月30日火曜日

亀石(奈良県明日香村にある亀の形をした遺構)

 亀の形の石です

 日経新聞3月29日の朝刊に、カエルの写真が出ていました。 ベルツノガエルです。亀石に似てると思いました。画像検索で探すとそれほどでもないですが、 国立科学博物館蔵の写真がイメージにあってます。似た写真が以下にあります。

「大地のハンター展~陸の上にも4億年~」

記事では、

後ろ足で土を蹴り、尻から潜る。目だけを出して静かにたたずみ、目の前を生き物が横切るやいなや飛びかかる。動くものがすべてがエサと思っているようだ。・・・海外で「パックマンフロッグ」との呼び名もある。

雰囲気も似てるなと思いました。

主にアルゼンチンやブラジルに生息する。大量に繁殖した個体が流通し、ペットとして店頭に並んでいるのを目にする機会もある。

とあり、ペルシャや日本とは関係なさそうですが、姿は似ています。亀石もカエル石と言った方が良いと思えてきます。 ゾロアスター教ではカエルは悪なる生物とされているようで、私の思い込みが強いですが、石造物として製作されたかも知れません。

 ついでですが、酒船石とかもカナートのミニモデルと思ってましたが、見本市とかで各地の勢力にデモする物ではなく、宗教的な祭祀の一環として用いられた可能性が大きいような気がしてきました。亀石もその一環です。戦国時代にキリスト教の布教に日本に宣教師がやってきたときも、文化的なものとが重なっていて、宗教のみで日本に伝わってはいないことを考えると石造物も単なるデモ用ではなく、祭祀施設として使用されていて、祭政一致の時代だったと考えないといけないのかもしれません。


追記:『ゾロアスター教』青木健、講談社、2008年3月、47頁に

ゾロアスター教徒は、犬は善なる創造物で、カエルは悪なる創造物であると教えられた。このために、忠実なゾロアスター教徒たる者は、毎月カエルを殺す日を設け、熱心にカエルを探しだして叩き潰さねばならないことになった。

とあります。代用としてカエルの石造物が製作されたことも考えられます。

2021年3月21日日曜日

酒船石とカナート

 ウィキペディでは

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。

ですが、以前から知られている酒船石のほうです。昔は何だかわかりませんでしたが、カナートを知ってこれだと思いました。もちろん、いろいろが説があり、その中に導水設備説があるようです。もっとはっきりとカナートのモデルというべきだと思いました。写真では分かりづらく、配置がわかる平面的図がありました。

石と水の都、面影が凝縮 「謎」の遺物 酒船石

 図の丸い部分が竪坑、筋の部分が横坑、方形の部分は貯水池と考えられます。カナートの配置図を示しています。記事では、傾斜の関係で池の部分は用をなさないとありますが、粘土とかでふさげば良いだけで大した問題にはならないと思われます。これは実際のカナートを地上から見ていても(写真で見てるだけですが)わかりません。おそらく実際のミニモデルで示さないと、画期的な技術は素人には理解できないので、モデルを作ったのではと思われます。

農林計画第55号、三野徹氏の基調講演 「現代科学から見た古代飛鳥京の水利基盤」のおわりに

地下水の利用に関しては、中東の乾燥地域を中心にきわめて古い時代からその利用技術が蓄積されてきている。シルクロードを経て中国に伝わり、さらに留学僧や大陸から移動してきたと見られる多量の技術者によって、わが国にその影響が伝わったことを想像することは難くない。正倉院の宝物が、西の古代文明の東にたどり着いた有形の物証であるならば、畿内に多く見られる古いため池や多くの地下水利用構造物は中近東の古代文明の影響を受けた技術と見るのは、言い過ぎであろうか。・・・

 サーサーン朝ペルシアの人たちは、復興を考えて日本に逃れてきたと思います。つまり、ペルシアに戻った場合に、インフラ整備をやり直す覚悟を持って技術者を引き連れていたと思います。その技術で多分、当時の劣悪な環境にあった飛鳥を水の都にしたと思います。おそらく百済からやってきた人と故郷に戻る意識は共通で結びついたと想像します。この辺は妄想になってきますが、天武天皇の飛鳥時代は、実際にあったことで、『日本書紀』の古い部分はフィクションだろうと思います。この後も、ペルシアの道路網建設の知識を用いて条里制や街道の整備で、日本を統一していったと考えるとスッキリしてきます。

イスラムから追われるように、宝物と技術を持ってサーサーン朝の人達が日本へやってきた。そのリーダーが天武天皇だったということです。

2021年3月20日土曜日

狂心渠(たぶれごころのみぞ)

  ペルシアの痕跡があるのかと思ってます。『ペルシア文化渡来考』、伊藤義教、ちくま学芸文庫(筑摩書房)、二〇〇一年四月が面白そうで借りてきました。その中に狂心渠について書かれています。 岡田明憲氏の解説に

Ⅱ明日香の古影ーーイラン要素虚像と実像
 著者が主張するペルシア人渡来説に基づき、『日本書紀』の述べる斉明天皇の土木工事に彼らが参加したと推定する。そして、純ゾロアスター教というよりも、広い意味でイラン的な民俗、風習に関わるものがそこにあることを示す。かかる例として、一般に「たぶれごころのみぞ」と訓じられる狂心渠を、カナートと同義であるコレーズの語源である中世ペルシア語のカハレーズを参考に、カハスに結びつけ、それがカアスとなり、狂心と写音した上で渠と意訳されたとする。またこの説を裏付けるものとして、当時の土木関係の用語に、中世ペルシア語で解せる例が多数あるのを明らかにする。・・・

ということです。天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと私は考えているので、母親としての斉明天皇は何なのだということになりますが、今はその話はおいといて、この時代のことと考えます。斉明天皇の失政を咎めるために、カアスがダジャレ的に狂心とあらわしたということのようです。
 このような土木工事は本当であろうかと思います。 『土木遺産Ⅴーー世紀を超えて生きる叡智の結晶ヨーロッパ編2オリエント編』、ダイアモンド社、2016年12月1日発行の中に イランのヤズドの町のカナートが紹介されています。

水の供給源「カナート」
 砂漠に井戸のように竪坑を掘り、その底部を横坑でつないだものをカナートと呼ぶ。地中にある水を集め、動力なしに途切れなく水を供給することができる乾燥地域の地下水利用の画期的な技術である。この技術を確立したのは、紀元前のイランであるといわれている。これまでのカナート研究の中でほぼ定説とされているのは、「紀元前七〇〇年頃にはすでにカナートが造られていた」というものである。

 驚いたのは、この本のコラムに、日本の類似土木遺産として「不破マンボ」が紹介されています。

類似点:地下水路(マンボ)
概要:岐阜県垂井町の灌漑施設として有名なのが、マンボと呼ばれる地下水路である。これは地中に長いトンネルを掘って、地下水を集める横井戸の一種だ。・・・最初のマンボは江戸時代末期の安政年間(一八九四~一八六〇)に造られ、明治から大正時代にかけて多くのマンボが掘られた。かって垂井盆地には、百数本のマンボがあったが、現在そのほとんどが姿を消した。・・・

と書いてます。記録的には江戸時代ですが、狂心渠が元にあると考えれば、七世紀にさかのぼる可能性もあるのではと思います。何もないところからカナートのような技術が生まれにくく、小規模のものでも、初めて見れば驚き、狂心と名づけるのも納得いきます。

 この本では最後の方のアルジェリア、アドラールのカナート群について

世界に広がるとして
カナートの起源には不明な点が多いが、紀元前七世紀ころの古代ペルシャで発明され、アケメネス朝ペルシャの領土拡大とともに西アジアから中近東の一帯にその技術が伝播したというのが定説である。これらの地域では「カーレーズ」と呼ばれた。アケメネス朝の滅亡後は、その版図をローマ帝国が支配したが、ローマ人は山麓の湧水を重要視し地下水には見向きもしなかったため、カナートには関心が払われなかった。その後、七~八世紀にかけてウマイヤによるイスラム帝国の拡大とともにカナートは北アフリカに伝わったものと思われる。・・・カナートは、中央アジアのトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、さらに東方にある中国・新疆ウイグル地区のトルファンなどにも見られる。この地域では坎児井(Kan-Er-Jing)と呼ばれる。これは「カーレーズ」の音が伝わったと推定されるが、その伝達時期は明らかではない。

 またイスラエルの世界最古の水道トンネルの類似遺産として金沢藩の辰巳用水が取上げられています。兼六園まで引かれ、噴水とかに使われているようです。噴水は日本最古とも謳われるとなってます。
 話がぐるぐるまわりになってますが、斉明二年の狂心渠の話に続いて、斉明三年には、須弥山の像を作り、盂蘭盆会を営み、夕べに都貨邏人(とからびと)を饗応なさった。とあります。
 明日香資料館にある須弥山石が、『日本書紀』にある須弥山に相当し、噴水の機能があります。当時のカナート造成を含めた水利技術力のアピールになったと思われます。その後も饗応に使用されていて、飛鳥のものは、兼六園の噴水に負けてるかもしれませんが、国造りを飛鳥の勢力にまかせようかという気にさせるモデルプラントの展示場の気がしてきました。 

2021年3月19日金曜日

飛鳥・奈良時代の寺院伽藍配置

 寺院の伽藍配置は多様です。

・飛鳥寺(6世紀末)・・塔が中心で金堂が東・西・中(中央上)と3方を囲む形式。
・四天王寺(6世紀末)・・塔・金堂が一直線。
・川原寺(7世紀中頃)・・塔・西金堂が並び中金堂が(中央上)。
・法隆寺西院(7世紀後半)・・塔・金堂が左右。
・薬師寺(730)・・東塔・西塔が左右に並び、中央奥に金堂。
・東大寺(752)・・東塔・西塔が回廊の外に出る。

『カラー版図説 日本建築の歴史』、矢ヶ崎善太郎編、学芸出版社をぱらぱらと見ていて図があります。ばらばらで発展過程を明快には説明できない。

とありました。

実際、どうなってるのだろうと思っていました。
これは、仏教寺院の継続性を考えようとして混乱が生じてしまうのであって、仏教だけでなくゾロアスター教の寺院とかもあったと考えれば、気にしなくても良くなります。仏舎利を納めるのが塔、像を祀るのが金堂、教えを論ずるところが講堂であり、宗教(宗派か)によってその重要度は異なってきます。塔中心の配置は確実に仏教であろうと思われます。以前、夏見廃寺の塼仏が印象に残っていましたが、その後廃れてしまいました。これもこの時代は、乱立していた時代であって、『日本書紀』では仏教重視であるので、ほかの宗教のことを軽視しています。7世紀には種々の宗教が日本に伝来しているはずです。実際の8世紀の神仏の争いを7世紀の蘇我・物部氏の話にして、思い込まされていたのだという気がします。初期の仏教伝来は気にしないでおこうと思います。


2021年3月17日水曜日

天武天皇、ペルシャ人?

 前記事の続きです。

 乾豆波斯達阿が日本にまた戻ってくると言い残して西海の路に行ったとの話です。日本と唐の間の戦争状態になり戻れないのはわかりますが、戦後交渉で郭務悰らが日本に来ています。この時に乾豆波斯達阿もついて来なかったのかと思います。もちろん、そうすれば立場が異なって指導的地位からの発言ができます。強権的な改革も行なうことができます。天智天皇から天武天皇へのすげ替えも簡単です。もちろん天武天皇がペルシャ人なら自分で好き放題出来そうです。サーサーン朝ペルシアの滅亡とリンクして、日本の古代にも影響があったと考えられます。唐からの使者も、実際はペルシアと関係のある使者かもしれません。

 前記事に書きましたが、残された「舎衛」と「墮羅」の女たちは天武天皇に薬および珍しいものを捧げて進上したということです。つまり日本にある程度の期間いたので、乾豆波斯達阿と違い、日本語や日本のことに精通してきてるはずです。

 雄略天皇のエピソードのところに皇后に説明を聞いた話があります。そうかと思います。

2021年3月16日火曜日

乾豆波斯達阿?

 ウィキペディアで出てきます。日本書紀の全文検索で「波斯」を検索した時、出てきたはずですが、次には出てきませんでした。

乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ、生没年不詳)は、『日本書紀』に現れる吐火羅の人物。 「乾豆」は「インド」、「波斯」は「ペルシャ」であり、「達阿」はインド人の人名の語尾であると言われており、固有人名ではないのではないか、と言われている。

斉明天皇6年(660年)、同国の人である乾豆波斯達阿が元の国に帰ろうとして送使に、

「願はくは後に大国(やまと)に朝(つかへまつ)らむ。所以(このゆゑ)に妻を留(とど)めて表(しるし)とす」 と言って、数十人と西の海の路にはいっていった、という[^『日本書紀』斉明天皇6年7月16日条]。

ということのようです。

 斉明天皇が実際に天皇であったかは疑いがありますが、この時代にペルシャに関係する人物が妻を残して日本を離れたとあります。どういう状況下であったのか想像すると、六五一年にササン朝ペルシャが滅び、ヤザドギルド三世の子、ペーローズが六六一年唐王朝に救援を要請しています。ペルシャの緊急事態に、乾豆波斯達阿一行が急遽、唐に戻ったと思われます。想像が過ぎるかもしれませんが、日本へペルシャ救援を求めてやってきたか、亡命してきたかはわかりませんが、方針の確認で唐に戻ったと考えられます。六六二年に高宗からペーローズは「波斯王」の称号を授けられています。

この部分、唐とサーサーン朝
 ペーローズと乾豆波斯達阿が唐で落ち合ったように思えますが、ペーローズ=乾豆波斯達阿の可能性もあります。 ウィキペディアには最後の方に

残された「舎衛」と「墮羅」の女たちは、天武天皇4年(675年)の1月に、大学寮の学生・陰陽寮・外薬寮・百済王善光・新羅の仕丁らとともに、薬および珍しいものを捧げて進上した、という[『日本書紀』天武天皇下、4年正月1日条]。

とあります。百済滅亡が六六〇年、白村江の戦いが六六三年ですので、ペルシャからの渡来人は混乱していたと思います。これも想像ですが、唐との戦いということで、日本に来た渡来人達も隔離された可能性があります。中国に渡った遣唐使も唐側に拘束されていたので、ありえます。隔離された収容施設みたいところが飛鳥になり、そこに石造美術でペルシャ風と思われるものを造っていた。ペルシャの復興運動が百済の復興運動と結びついたことがあるかもしれません。天武天皇四年の記事は人質として残ったかもしれない勢力の人たちが存在の確認を求めたことのように思われます。

2021年3月14日日曜日

ダレイオス1世の系図と天武天皇

  ダレイオス1世は「ダーラヤワウシュ」一世のことです。 『ペルシア帝国』の50頁に系図についての話があります。 ダーラヤワウシュ家を名門チシュピシュ家の一族と偽装したとの疑いがあるようです。 52頁には

この無理な主張を幾分か正統化するべく、ダーラヤワウシュ一世はクールシュ王家の王女三人とあいついで結婚した。・・・(子は血統を継ぐので)唯一「クールシュ二世」と父系の血縁関係がないのが、他ならぬダーラヤワウシュ一世であった。

 天武天皇の場合、天智天皇の四人の鸕野讃良皇女、大田皇女 、大江皇女 、新田部皇女 の場合と似ています。『日本書紀』も王統の正統性にこだわり、いろいろな操作が行なわれているように思われました。どこでもよくあることなのでしょう。現実解は、天智天皇と天武天皇は兄弟ではないということになるのだと思います。

『ペルシア帝国』、青木健、株式会社講談社、二〇二〇年八月二〇日

2021年3月13日土曜日

ペルシア帝国の職人

  ペルシア帝国の最後となったエーラーン帝国で 『ペルシア帝国』、青木健、株式会社講談社、二〇二〇年八月二〇日 に 「職人ギルドの発展と経済活動」が書かれています。282頁。

ホスロ一世~ホスロー二世当時の状況を記述したと見られる中世ペルシア語文献『デーンカルド』第八巻第三八章には、エーラーン帝国内の市場(ワーザール。近世ペルシア語でバーザール。英語のバザールの語源)で活動する市場商人たち(ワーザーラガーン)と、それを支える職人たち(キッロガーラーン)について、以下のような記述がある。 鍛冶屋(アーヘン・ガル)・・・職人が二五個並ぶ・・・
 彼らは、各職人ギルドの長(キッローグベド)によって統率され、市場全体は帝国官僚である価格監視官(ワーザーベド)によって管理された。また、各市場の間は、隊商指導者(サールトワー)によって統率された隊商(カーラーワーン。英語のキャラバンの語源)によって結ばれていた。六~七世紀の段階で、これだけ多様な各種職人達を擁し、管理された市場ネットワークを運営していたエーラーン社会の爛熟を思うべきである。

その次があります。

商工業の担い手 ・・・一見すると隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業は、実際には外来の民ーーー悪くすると、意に反して拉致してきた異国の民ーーーによって支えられていたのである。・・・

 技術の導入には職人を連れてくるのが手っ取り早いということです。しかも戦争により、問答無用で導入できます。  秀吉の時代、文禄・慶長の役で、朝鮮国から数多くの陶工たちが日本に連れてこられました。現在のような唐津焼は、約七万人ともいわれる朝鮮国の陶工たちによって作られたもの。ということです。  考えるのは飛鳥時代の石像で、明らかに外来のもので、それも長く続いていません。ペルシアからやってきた石工職人が造り、それが次の代には続かなかったと考えるべきだと思います。その時代は白村江の戦い頃で、奈良時代ではなかろうと思います。

石人像 

唐とサーサーン朝

 『ペルシア帝国』、青木健、株式会社講談社、二〇二〇年八月二〇日 に唐とペルシアの関係の記述がありました。ペルシャではなくペルシアです。

サーサーン朝の滅亡に対して、政治的基盤をなしていた大貴族の対応は

①イスラーム教徒支配に順応していったパターン
②徹底抗戦して滅んでいったパターン
③唐王朝に亡命していったパターン

にほぼ等分されるとあります。338頁に唐王朝への亡命についてかかれています。

サーサーン家の亡命
 マスゥーディーに拠れば、ヤザドギルド三世には、長男ヴァフラーム、次男ペーローズ、他三名の女子が居たと伝わる。また、ヘルツフェルトに拠れば、ペーローズは六三六年生まれだとされる。このペーローズの生涯については、『旧唐書』と『新唐書』に記載がある。  後者に拠ると、ペーローズは、バクトリア地方、スィースターン州などでアラブ人イスラーム教徒軍に抗戦を続けたものの、所期の成果は得られなかった。六六一年には、唐王朝に救援を要請し、六六二年に高宗から「波斯王」の称号を授けられている。だが、とうとう拠点を維持できなくなり、六七三年~六七五年に長安へ亡命して、ここで高宗から「右武衛将軍」に任命された。六七七年には、長安に「波斯寺」を創建しているが、現在西安市内で知られている六つの拝火神殿跡(遺跡などは何も残っていない)のどれにあたるかは不明である。・・・彼は、六七九年に四一歳で(ヘルツフェルトが正しければだが)没した。・・・ ペーローズの息子のナルセフは、六七九年頃、サーサーン朝再建のために、裴行倹(六一九年~六八二年)に付き添われて中央アジアへ出撃した。・・・ナルセフは、七〇七年から七〇九年に長安に帰還し、唐王朝から「左威衛将軍」に任命されたものの、ほどなくして病没し、サーサーン家の正統後継者は絶えた。

スーレーン家の長安亡命
アルシャク朝時代からサーサーン朝中期までは、帝国随一の名門とされたスーレーン家であったが、サーサーン朝後期にはすっかり衰退してしまい、アラブ人イスラーム教徒に対する華々しい抵抗も伝えられていない。しかし、八七四年に長安で死去した「左神策軍散兵 馬使蘇諒妻馬」という人物の漢文・中世ペルシア語併用墓碑が残存している。一九六四年に伊藤義教氏が中世ペルシア碑文を解読したところでは、・・・、スーレーン家の娘の墓誌であると判明した。

 六六三年が白村江の戦い、六七二年が壬申の乱です。微妙な時期にあります。唐と日本のつながりの中にペルシャが無関係とは言えないように思われます。「波斯王」ですが、「波斯」が本当にペルシャのことかと思ってましたが、そうらしいことがわかりました。また「波斯寺」ですが、寺は仏教が当然のように思っていましたが、そうではなさそうだということもあらためて認識しました。日本の寺も、白鳳時代の寺は仏教とは限らずに、ひょっとして拝火教的な寺もあったかもしれません。特に天武天皇の時代の川原寺とかあやしいと思われます。読経も仏典ではなく、それぞれの宗教に対応していたものであった可能性があります。白鳳寺院とかの仏像とあるのも本当に仏といってよいのかという気がします。


以前の記事にも関連したものがありました。 


飛鳥の石造物とペルシャ


追記:R030313、波斯古寺について 

『ユーラシア文明とシルクロード』、児島健次郎・山田勝久・森谷公俊、雄山閣、平成28年6月25日発行の本に波斯古寺について書かれています。日本でも混乱があったかもしれません。

 西方からの文化とともに長安の街を活気づけたのは、西方宗教の伝来であった。まず、貞観五年(六三一)に祆教(ゾロアスター教)が、貞観九年(六三五)に景教(キリスト教ネストリウス派)が、嗣聖一一年(六九四)にマニ教が伝わる。・・・
 中国人は、火の神を拝する信仰について、どのような名称をつければよいかわからず、示偏に天を付して祆教と呼び、金堂を祆祠と名付け、彼らの出身地から波斯古寺といった。
 いっぽう、キリスト教ネストリウス派の人たちもペルシアからやってきたので波斯古寺と呼んだ。ネストリウス派は、キリストの神性やマリア聖母説を否定したため、四三一年に開かれたエフェソスの宗教会議で異端とされ迫害を受けた一派である。中国ではネストリウス派と祆教の間に混乱がおき、玄宗は天宝四年(七四五)にこの一派を「大秦寺(だいしんじ)」とする勅令を出した。大秦とはローマのことで中国では景教という名が用いられた。・・・



2021年3月11日木曜日

ローマの街道網

  ギリシャやローマなどの世界史は良くわかってなく、ギリシャ・ローマから日本を類推するのはちょっと無理な気もしますが、『ローマから日本が見える』、塩野七生、株式会社集英社インターナショナル、二〇〇五年七月一九日第二刷発行、を図書館から借りてきました。 130頁に「なぜローマ人は街道を造ったのか」書かれています。ローマ防衛のソフトウェアとしての同盟関係の「ローマ連合」とハードウェアとしての街道網という話の後半です。

・・・  人間や馬車が頻繁に行き来することでできる自然の道ではなく、最初から計画を持って街道を敷設するのは、何もローマ人の独創ではありません。紀元前五世紀のペルシャ帝国にはペルシャ湾から地中海へ至る街道が整備されていて、歴史家ヘロドトスを驚かせています。  しかし、街道を単なる物資や人の輸送のためだけに利用するのではなく、もっと有機的に利揺するというアイデアを考え出したは、しかも、それをネットワーク化すれば飛躍的な効果が上がることに気が付いたのも、ひとえにローマ人の発明と言えるでしょう。  ローマの街道敷設は紀元前三一二年、つまり山岳民族のサムニウム族との戦争のさなかに始まります。最初に着工されたのは、今もイタリアに残る「アッピア街道」です。・・・ローマは自分が制覇した土地にあえて駐留軍を置かなかった。・・・となれば、もし戦争や紛争が起これば、基地から急派するしかない。・・この当時のローマ軍の駐屯地は首都ローマにしか存在しない。したがって、どうすれば一刻も早く目的地に到着できるかがカギになる。そこで生まれたのがローマ街道のアイデアであった。・・ローマ街道の第一の目的は、軍用道路であったというわけです。・・

 目的はそれだけでなく、経済活動の活性化、物心ともの交流も大事で運命共同体を目指したということのようです。  さて、街道のモデルはペルシャ帝国にあったとのことです。それらしきところを探すと、

ダレイオス王の時、整備された交通網、駅伝制ににより、早い場合は一日に320km離れた場所まで伝言を運ぶことができたのです。 世界の歴史2,古代ギリシャとアジアの文明、2003年2月、J.M。ロバーツ編、創元社

とありました。塩野七生氏の本では、古代シナに街道が存在しなかったわけではないが、万里の長城を築くことにエネルギーを注いだとのことで、それほどでもないような記述です。天武天皇の時代に街道の整備を考えていったはずなので、これがそれまでの海洋国家的なものからの大きな変化なので、どこからアイデアが出てきたのだろうかと思います。妄想ですが、ローマの街道から発想を得たとは思えませんが、ペルシャから得たとすれば面白いなと思います。

平城京の宮廷ではイラン人の役人も勤務していた

古事記の稗田阿礼はインド人か?



2021年3月8日月曜日

瀬戸内海と地中海

 小豆島のオリーブで思いついたわけではないですが、瀬戸内と地中海は似ているのではといいうことです。おそらくギリシャは地中海があって成立したと思います。日本においても、吉備・伊予・周防などの地域国家のようなものは内海の海上交通により物流が整備されて発展したと考えられます。前にもギリシャ→ローマも海路→陸路の交替によったものだと言ってた気がしますが、日本においても瀬戸内海の海辺の国家が発展し、ヤマト勢力のような古代国家が成立していったということだと思います。火の国も有明海があったことが発展につながり、これらの地域国家が海上交通で結ばれて連合したのが倭国だろうと思います。『日本書紀』史観の七世紀後半の統一された日本のイメージに囚われてはいけないということです。

 

2021年3月6日土曜日

岡山県の神社

 『岡山県の歴史』、山川出版社、2012年3月30日第2版1刷発行 の気になるところがあります。75頁です。

式内社、吉備津神社

 その年の豊穣を祈願して神祇官が行なう国家的祭祀が祈年祭であるが、その祭にあたり、国家から供物がさがる神社を選定する作業が、祈年祭の創始(大宝令以降か)とともにはじまった。十世紀初頭までにリストアップされた官社が、『延喜式』神名帳に搭載されている三一三二社のいわゆる式内社である。岡山県に所在する式内社は、美作・備前・備中あわせて五五社で、いずれも国司が神祇官にかわって弊を進める国弊社である。
 三国に一つずつ名神大社と称される重視された神社がある。美作の中山神社、備前の安仁神社、備中の吉備津彦神社(現在の吉備津神社)である。
 式内社はいうまでもなく在地の神がまつられた社であるが、岡山県内には在地神とはみられない神社もある。たとえば備前国御野郡の天神社、伊勢神社、天計(あまはかり)神社などである。これらは律令国家側からもちこまれた神社のようにもみられるのであるが、それがいかなる事情によるのか、備前国御野郡に集中してあるのはなぜなのかなど興味ある研究課題であろう。

 これらの神社がどうして律令国家側から持ち込まれたかは私には不明です(伊勢神社はなんとなくわかります。他は天の字があるから?)。 『式内社調査報告書、第二十二巻山陽道』、皇學館大學出版部、昭和五十五年を見ると、 備前国の神社名で、鴨神社、宗形神社、大神神社などのなんだろうという神社があります。他の地域にもこのような神社がそれほどあるとは思ってないので、これらの神社はヤマトの勢力の痕跡であろうと想像されます。

 天武天皇の時代に吉備への侵攻が行なわれ、そのヤマトの連合勢力が拠点としたところが神社として残っていたという可能性になります。古い時代の神話ではなく、七世紀後半の話であって、辻褄があってきます。神社の由緒とか全然わかってないので、ピンぼけかもしれません。今後の課題になります。


吉備津彦と四道将軍

図の山城は七世紀後半のものです。この時代の吉備で、神社が関係ありそうです。

武烈天皇と雄略天皇

  武烈天皇の名は『日本書紀』では小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)。雄略天皇の名、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと )と似ていて、大泊瀬と小泊瀬がペアになっています。仁徳天皇の名の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に似てるとウィキペディアにありますが、仁徳天皇=孝徳天皇と考えられるので、地名の泊瀬の方が重要で(*1)、武烈天皇=雄略天皇=天武天皇と考えます。次は継体天皇になり、武烈天皇の代で断絶するので、書紀の編纂者はどうでもよいやと思ってたのか、適当な記述のようにも感じます。天武天皇の実態をそれほど表してはいないかもしれません。

*1:『日本書紀②』、日本古典文学全集3.小学館、での武烈天皇即位前記の注一に「小泊瀬」は雄略天皇の「大泊瀬」の対。宮号も「泊瀬朝倉宮」に対して「泊瀬列城宮」。「泊瀬」は奈良県桜井市初瀨あたりの地名による。・・雄略・仁徳天皇の名から作為された名で実在しない天皇とする説もある。

と書いてます。当然、実在しないということですが、天武天皇として考えられるところがあるのかということだろうと思います。上記の本の注に武烈八年三月条に出てくる「侏儒」が、天武紀四年にあるとあって書紀編纂者は天武紀を参照しているのかもしれないと思いました。

2021年3月5日金曜日

持統天皇の称制の時代を想像する

  天武紀には朱鳥元年九月九日、天武天皇の崩御、二十四日に大津皇子の皇太子に謀反を起こす事件が書かれています。  一方、持統天皇称制前紀では、

朱鳥元年九月の戊戌朔の丙午(九日)に、天武天皇が崩御された。皇后は臨時に政務をお執りになった。 冬十月の戊辰朔の己巳(二日)に皇太子の謀反が発覚した。皇子大津を逮捕し、併せて皇子大津に欺かれた・・・ら三十人余りを捕らえた。庚午(三日)に、皇子大津は長田の訳語田(おさだ)の家で死を賜った。時に年二十四であった。・・・

 この大津皇子の謀反事件ですが、日にちが微妙に違います。大したことはないのかもしれません。持統天皇の方では、大津皇子は犯罪人であるのに、少し褒めすぎのような記述になっています。また、捕らえられた人たちも軽い処分になっています。何らかの圧力があったように思われます。このあと、持統天皇は喪に服して、政務的な話は不明です。その後は、持統三年正月・八月に吉野行幸の話。その間の四月に皇太子草壁皇子尊が薨去。視察などの行事が目につきました。持統天皇四年にようやく即位の記事が出現します。  『日本書紀』の記述では、平穏に過ぎて行くように表されていますが、そうでは無かったのではとの推測です。その根拠は、雄略天皇の記述にあります。天武天皇のイメージがあるとの信念で見ないといけないのですが、頭が回ってませんでした。天武紀で最後の様子はわかりませんが、雄略天皇のところでは想像をまじえて具体的に描かれています。

天武亡き後、邪悪な星川王が継げば害が及ぶあろうが、立派な皇太子が志を継いでくれるであろう

と最後の言葉で雄略天皇は述べています。

天皇崩御の今が時期だとして、征新羅将軍に付き従った蝦夷が吉備の国で、周辺の郡を侵攻し、これを防いだ

とあります。騒乱的なことが起こったようなことが書いてあります。次の天皇である清寧天皇(イメージは大津皇子)の代で、

吉備稚媛(きびのわかひめ)は、ひそかに幼子の星川皇子に語って、「天位に登ろうと思うなら、まず大蔵の官を取りなさい」と言った。長子の磐城皇子は、母の夫人(おおとじ)がその幼子に教えた言葉を聞いて、「皇太子は我が弟とはいえ、どうして欺いてよいものか。欺いてはならない」と言った。星川皇子は聞き入れず、母の夫人の意に従って、ついに大蔵の宮を取り、外門を閉鎖して難局に備え、権勢を意のままにして、官物を費した。そこで、大伴室屋大連は、・・・(雄略天皇の遺詔の通りだとして)・・・軍兵を起こして大蔵を囲み、外から封じ込めて、火を放って焼き殺した。・・・ この月に、吉備上道臣らは、朝廷で乱が起きたことを聞いて、吉備稚媛の生んだ星川皇子を救おうと思い、軍船四十艘率いて、やってきて海に浮んだ。しかし焼き殺されたと聞いて海路を引き返した。天皇は使者を遣って、上道臣らを詰責して、その所領の山部を奪われた。

とあります。吉備国がやたら出てきて、これがどこまで本当かはわかりませんが、星川皇子は吉備の勢力と結びついていて、反乱になりそうであったということです。軍船四十艘まではわかりませんが、軍事的圧力で大津皇子関係者の処分が緩められ、大津皇子も名誉回復が行なわれたということです。天武天皇の子は実際は各地の勢力の娘が妃になっていて、政略結婚的なイメージをもちます。『書紀』では一括して天智天皇の皇女としていますが、そうではないだろうと思います。大田姫皇女の子の大伯姫皇女は備前で生まれており、大津皇子は九州の那大津で誕生(とあるが出処不明)なので、大田姫皇女は吉備と関係あると考えれば、雄略紀の吉備が頻出する創作になったのかと思います。ついでになりますが、草壁皇子の死もその原因が良くわからず、政争に巻き込まれたことが考えられます。天武天皇がキーパーソン過ぎて、その後継者は多くいたが、決定的な人物がおらず、混乱を生じ、妥協の産物として持統天皇が四年目にして即位となったような気がしてきました。『日本書紀』史観では、万世一系の天皇を主張するので、皇位継承の混乱を隠しているように思います。この混乱のから、律令政治を目標とすることになったと考えるとスッキリしてきます。

『日本書紀①』、新編日本古典文学全集2,一九九四年四月
『日本書紀③』、新編日本古典文学全集4,一九九九年三月

2021年3月3日水曜日

日本書紀の血縁関係

  『日本書紀①』、新日本古典文学全集2、小学館、一九九四年四月 の孝霊天皇のところを見ています。誰それの祖である記事が多いです。次の孝元天皇も同様に誰かの祖である記事が多いです。次の開化天皇もこれが続きます。誰かの祖であることを示すためだけの天皇に思えてきます。『日本書紀』はオールジャパンを示すために祖先は同一であると示したいようです。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は欠史八代(けっしはちだい)と言われますが(この部分ウィキペディア(以下ウィキ)を見ました)、この時代だけでなく、その後も血縁関係は適当に示しているように思われて来ました。天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと考えるべきですが、その後の話に大田皇女は本当に天智天皇の皇女なのかと思います。天武天皇との子に大来皇女、大津皇子がいます。 大来皇女(おおくのひめみこ)ですが、ウィキでは、

天武天皇の皇女。大伯皇女とも書く。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)で、同母弟に大津皇子がいる。伊勢斎宮。

とあります。斎宮ですが、これもウィキでは

斎宮(さいぐう/さいくう[1]/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、・・・

です。またウィキですが、伊勢神宮の神話と創祀に

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

この倭大国魂神をウィキで見ると

『日本書紀』のみに登場し、他に日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神として有名。

『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。

このあとに、

同年8月7日、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、倭国造の市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。

とやっと、「大田」が出てきます。この大田田根子が大田皇女につながると考えます。大田皇女の子の大来皇女は伊勢斎宮ですが、天武天皇亡き後に解任されています。このあたりがどうだかという話ですが、大田田根子が大田皇女のイメージで『日本書紀』では語られ、大田皇女も斎宮的な人であったことが考えられます。伊勢神宮の変質も持統天皇即位とともにあった可能性があります。天武天皇周りの近親結婚は、『日本書紀』史観によるもので、実際どうだかという気がしてきました。大田田根子の話からは、大田皇女と鸕野讃良皇女(持統天皇)も姉妹にこだわる必要はないかもしれません。

2021年3月2日火曜日

吉備津彦と四道将軍

  崇神天皇十年九月に四道(北陸道・東海道・山陽道・山陰道)に派遣の記事があります。崇神天皇十年十月にも四道将軍を畿外に派遣の話があります。吉備津彦は西の道(山陽道)担当ですが、詳しくは書かれていません。孝霊紀二年条に、別名として吉備津彦の名があります。『古事記』孝霊紀にある記事では

大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二人は、連れだって播磨の氷河の岬に忌瓮(いわいへ)をすえて神をまつり、播磨を道の入口として、吉備国を言向(ことむ)け平定した。さて、この大吉備津日子命は〔吉備の下道臣・笠臣の祖先である〕。次に、日子寤間命は〔播磨の牛鹿臣の祖先である〕。・・・
『古事記』新編日本古典文学全集1、小学館、一九九八年六月

とあります。播磨の氷河(今の加古川)に吉備国平定の基地を作ったということです。実はここで、山城の分布を思い出します。山城をヤマトの勢力に対する防衛拠点と考えると、分布が理解できます。山城分布の図に手書きで加古川を赤丸で示しました。




 白村江の敗戦の後の防衛拠点と考えると、例えば唐・新羅軍が瀬戸内海を通って攻めてくるならば淡路島に山城がないのはなぜだということになりますが、国内のキビ・ヤマトの対立ですでに播磨にヤマトの勢力の範囲が広がっておれば淡路島の防衛は意味が無いことになります。吉備だけでなく伊予や周防・九州もなども含めた地域との争いがあったことが考えられます。四道将軍・崇神天皇なども天武天皇の時代の話としてつじつまが合います。天武天皇の初期の段階では畿内のみの統一であったとすれば、最初の飛鳥の宮も小規模であったことに納得できます。

2021年3月1日月曜日

鳴釜神事と阿曾

  鳴釜神事は吉備津神社の行事です。神社名で『式内社調査報告第二十二巻』では、吉備津彦神社となっています。違いをわかってませんでした。

しかし王朝時代から明治維新までは吉備積宮とか吉備津大明神と呼ぶことが多かった。また、「備中の一宮」と呼ばれることもあった。明治以後は「吉備津神社」と公稱され、今日に至ってゐる。氏子や信者の間では「吉備津さん」と愛稱された。

なほ、岡山市一宮に備前國一宮の吉備津彦神社(元國幣小社)があり、廣島縣芦品郡新一町宮内に備後國一宮の吉備津神社がある。祭神は吉備津神社と同一である。古く當社から分祀されたものと考へられている。

さて、鳴釜神事ですが、御釜殿で行なわれ、 ウィキペディアでは

古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ。

とあります。注目される阿曽女ですが、温羅伝説では妻である阿曽郷の祝の娘が出てきます。温羅は悪者の扱いですが、阿曽女との結びつきから土着化している雰囲気があります。実際のところどうだかわかりませんが、使用される釜は、阿曾で作られたもののようです。古い時代から連綿と続いてそうですが、『岡山県の歴史』(下記の上参照)では、最古の鋳物でも、1520年なので、たどることはできません。  鉄製品の奉納ですが、同じく『岡山県の歴史』(下記の下参照)では、鉄は吉備の特産であったとあります。ヤマトの勢力が鉄を求めて吉備との対立が起こったもので神話の時代ではなく、時系列に考えれば、七世紀後半の話に思えます。 吉備津神社も他の各地の神社と同様に、それぞれの地域性を持つことが許されていて(建築様式としては吉備津造りなど)、鳴釜神事も認められて、その中で公式に伝えられない部分が伝承的な話となったような感じです。

『岡山県の歴史』県史33、山川出版、2012年3月発行第2版

備前刀と備前焼のところ(119頁)に 備中の阿曾(総社市西阿曽)に鋳物業が発達した経緯もあきらかでない。阿曾の鋳物師(いもじ)は中世には、備前一宮(吉備津彦神社)へ、「たたら役」「釜役」と称して毎年牛鍬のへらや先、五徳、羽釜を貢納し、備中一宮(吉備津神社)へは五升鍋をおさめて、国内での公事を免除されていた。また、吉備津神社の鳴釜神事に使用される羽釜もいつのころからか、阿曾の鋳物師が鋳替え、奉納することになっていた。なお阿曾鋳物師の手になることが判明する最古の鋳物は、吉備津神社に伝わる永正十七(1520)年の梵鐘である。

鉱山業・製塩業の進展 八世紀律令制下において、鉄は吉備諸国の特産であった。近年の研究により、原料は砂鉄よりも鉄鉱石を多用していることがあきらかになってきた。六国史や『延喜式』によると、奈良・平安時代の鉄の産出地は11ヶ国を数えるが、中国・山陰地方の備前・備中・備後・美作・出雲・伯耆の六ヶ国が質量ともにすぐれた産出地であった。飛鳥・奈良時代の木簡では、備前・備中・備後・美作が鉄・鍬(くわ)の輸納國である。・・

 鉄がなぜにこれほど重要なのかと言うことですが、白村江の戦いで日本?(少なくともヤマトの勢力)が大敗し、緊急の課題として鉄生産の地域を押さえる必要があったことが妄想されます。


以前に阿蘇の地名とか考えていました。