鳴釜神事は吉備津神社の行事です。神社名で『式内社調査報告第二十二巻』では、吉備津彦神社となっています。違いをわかってませんでした。
しかし王朝時代から明治維新までは吉備積宮とか吉備津大明神と呼ぶことが多かった。また、「備中の一宮」と呼ばれることもあった。明治以後は「吉備津神社」と公稱され、今日に至ってゐる。氏子や信者の間では「吉備津さん」と愛稱された。
なほ、岡山市一宮に備前國一宮の吉備津彦神社(元國幣小社)があり、廣島縣芦品郡新一町宮内に備後國一宮の吉備津神社がある。祭神は吉備津神社と同一である。古く當社から分祀されたものと考へられている。
さて、鳴釜神事ですが、御釜殿で行なわれ、 ウィキペディアでは
古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ。
とあります。注目される阿曽女ですが、温羅伝説では妻である阿曽郷の祝の娘が出てきます。温羅は悪者の扱いですが、阿曽女との結びつきから土着化している雰囲気があります。実際のところどうだかわかりませんが、使用される釜は、阿曾で作られたもののようです。古い時代から連綿と続いてそうですが、『岡山県の歴史』(下記の上参照)では、最古の鋳物でも、1520年なので、たどることはできません。 鉄製品の奉納ですが、同じく『岡山県の歴史』(下記の下参照)では、鉄は吉備の特産であったとあります。ヤマトの勢力が鉄を求めて吉備との対立が起こったもので神話の時代ではなく、時系列に考えれば、七世紀後半の話に思えます。 吉備津神社も他の各地の神社と同様に、それぞれの地域性を持つことが許されていて(建築様式としては吉備津造りなど)、鳴釜神事も認められて、その中で公式に伝えられない部分が伝承的な話となったような感じです。
『岡山県の歴史』県史33、山川出版、2012年3月発行第2版
備前刀と備前焼のところ(119頁)に 備中の阿曾(総社市西阿曽)に鋳物業が発達した経緯もあきらかでない。阿曾の鋳物師(いもじ)は中世には、備前一宮(吉備津彦神社)へ、「たたら役」「釜役」と称して毎年牛鍬のへらや先、五徳、羽釜を貢納し、備中一宮(吉備津神社)へは五升鍋をおさめて、国内での公事を免除されていた。また、吉備津神社の鳴釜神事に使用される羽釜もいつのころからか、阿曾の鋳物師が鋳替え、奉納することになっていた。なお阿曾鋳物師の手になることが判明する最古の鋳物は、吉備津神社に伝わる永正十七(1520)年の梵鐘である。
鉱山業・製塩業の進展 八世紀律令制下において、鉄は吉備諸国の特産であった。近年の研究により、原料は砂鉄よりも鉄鉱石を多用していることがあきらかになってきた。六国史や『延喜式』によると、奈良・平安時代の鉄の産出地は11ヶ国を数えるが、中国・山陰地方の備前・備中・備後・美作・出雲・伯耆の六ヶ国が質量ともにすぐれた産出地であった。飛鳥・奈良時代の木簡では、備前・備中・備後・美作が鉄・鍬(くわ)の輸納國である。・・
鉄がなぜにこれほど重要なのかと言うことですが、白村江の戦いで日本?(少なくともヤマトの勢力)が大敗し、緊急の課題として鉄生産の地域を押さえる必要があったことが妄想されます。
以前に阿蘇の地名とか考えていました。
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