ペルシア帝国の最後となったエーラーン帝国で 『ペルシア帝国』、青木健、株式会社講談社、二〇二〇年八月二〇日 に 「職人ギルドの発展と経済活動」が書かれています。282頁。
ホスロ一世~ホスロー二世当時の状況を記述したと見られる中世ペルシア語文献『デーンカルド』第八巻第三八章には、エーラーン帝国内の市場(ワーザール。近世ペルシア語でバーザール。英語のバザールの語源)で活動する市場商人たち(ワーザーラガーン)と、それを支える職人たち(キッロガーラーン)について、以下のような記述がある。 鍛冶屋(アーヘン・ガル)・・・職人が二五個並ぶ・・・
彼らは、各職人ギルドの長(キッローグベド)によって統率され、市場全体は帝国官僚である価格監視官(ワーザーベド)によって管理された。また、各市場の間は、隊商指導者(サールトワー)によって統率された隊商(カーラーワーン。英語のキャラバンの語源)によって結ばれていた。六~七世紀の段階で、これだけ多様な各種職人達を擁し、管理された市場ネットワークを運営していたエーラーン社会の爛熟を思うべきである。
その次があります。
商工業の担い手 ・・・一見すると隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業は、実際には外来の民ーーー悪くすると、意に反して拉致してきた異国の民ーーーによって支えられていたのである。・・・
技術の導入には職人を連れてくるのが手っ取り早いということです。しかも戦争により、問答無用で導入できます。 秀吉の時代、文禄・慶長の役で、朝鮮国から数多くの陶工たちが日本に連れてこられました。現在のような唐津焼は、約七万人ともいわれる朝鮮国の陶工たちによって作られたもの。ということです。 考えるのは飛鳥時代の石像で、明らかに外来のもので、それも長く続いていません。ペルシアからやってきた石工職人が造り、それが次の代には続かなかったと考えるべきだと思います。その時代は白村江の戦い頃で、奈良時代ではなかろうと思います。
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