2021年3月2日火曜日

吉備津彦と四道将軍

  崇神天皇十年九月に四道(北陸道・東海道・山陽道・山陰道)に派遣の記事があります。崇神天皇十年十月にも四道将軍を畿外に派遣の話があります。吉備津彦は西の道(山陽道)担当ですが、詳しくは書かれていません。孝霊紀二年条に、別名として吉備津彦の名があります。『古事記』孝霊紀にある記事では

大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二人は、連れだって播磨の氷河の岬に忌瓮(いわいへ)をすえて神をまつり、播磨を道の入口として、吉備国を言向(ことむ)け平定した。さて、この大吉備津日子命は〔吉備の下道臣・笠臣の祖先である〕。次に、日子寤間命は〔播磨の牛鹿臣の祖先である〕。・・・
『古事記』新編日本古典文学全集1、小学館、一九九八年六月

とあります。播磨の氷河(今の加古川)に吉備国平定の基地を作ったということです。実はここで、山城の分布を思い出します。山城をヤマトの勢力に対する防衛拠点と考えると、分布が理解できます。山城分布の図に手書きで加古川を赤丸で示しました。




 白村江の敗戦の後の防衛拠点と考えると、例えば唐・新羅軍が瀬戸内海を通って攻めてくるならば淡路島に山城がないのはなぜだということになりますが、国内のキビ・ヤマトの対立ですでに播磨にヤマトの勢力の範囲が広がっておれば淡路島の防衛は意味が無いことになります。吉備だけでなく伊予や周防・九州もなども含めた地域との争いがあったことが考えられます。四道将軍・崇神天皇なども天武天皇の時代の話としてつじつまが合います。天武天皇の初期の段階では畿内のみの統一であったとすれば、最初の飛鳥の宮も小規模であったことに納得できます。

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