2021年3月16日火曜日

乾豆波斯達阿?

 ウィキペディアで出てきます。日本書紀の全文検索で「波斯」を検索した時、出てきたはずですが、次には出てきませんでした。

乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ、生没年不詳)は、『日本書紀』に現れる吐火羅の人物。 「乾豆」は「インド」、「波斯」は「ペルシャ」であり、「達阿」はインド人の人名の語尾であると言われており、固有人名ではないのではないか、と言われている。

斉明天皇6年(660年)、同国の人である乾豆波斯達阿が元の国に帰ろうとして送使に、

「願はくは後に大国(やまと)に朝(つかへまつ)らむ。所以(このゆゑ)に妻を留(とど)めて表(しるし)とす」 と言って、数十人と西の海の路にはいっていった、という[^『日本書紀』斉明天皇6年7月16日条]。

ということのようです。

 斉明天皇が実際に天皇であったかは疑いがありますが、この時代にペルシャに関係する人物が妻を残して日本を離れたとあります。どういう状況下であったのか想像すると、六五一年にササン朝ペルシャが滅び、ヤザドギルド三世の子、ペーローズが六六一年唐王朝に救援を要請しています。ペルシャの緊急事態に、乾豆波斯達阿一行が急遽、唐に戻ったと思われます。想像が過ぎるかもしれませんが、日本へペルシャ救援を求めてやってきたか、亡命してきたかはわかりませんが、方針の確認で唐に戻ったと考えられます。六六二年に高宗からペーローズは「波斯王」の称号を授けられています。

この部分、唐とサーサーン朝
 ペーローズと乾豆波斯達阿が唐で落ち合ったように思えますが、ペーローズ=乾豆波斯達阿の可能性もあります。 ウィキペディアには最後の方に

残された「舎衛」と「墮羅」の女たちは、天武天皇4年(675年)の1月に、大学寮の学生・陰陽寮・外薬寮・百済王善光・新羅の仕丁らとともに、薬および珍しいものを捧げて進上した、という[『日本書紀』天武天皇下、4年正月1日条]。

とあります。百済滅亡が六六〇年、白村江の戦いが六六三年ですので、ペルシャからの渡来人は混乱していたと思います。これも想像ですが、唐との戦いということで、日本に来た渡来人達も隔離された可能性があります。中国に渡った遣唐使も唐側に拘束されていたので、ありえます。隔離された収容施設みたいところが飛鳥になり、そこに石造美術でペルシャ風と思われるものを造っていた。ペルシャの復興運動が百済の復興運動と結びついたことがあるかもしれません。天武天皇四年の記事は人質として残ったかもしれない勢力の人たちが存在の確認を求めたことのように思われます。

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