2018年7月30日月曜日

山田・山本の再考

 以前に、山田について山本の田んぼであると言ってましたが、間違いかもしれないと思うようになりました。
棚田学入門、棚田学会著、勁草書房発行の第2講に棚田の歴史について述べられています。
棚田のはじまりで、歴史についてはまだ十分に解明されていないものの、傾斜地での水田造成そのものが、弥生・古墳時代まで遡ることは間違いがなく、棚田という語は、南北朝期に初出するものの一般的ではなく、棚田よりも山田の方がはるかに昔から表現されていて、万葉集などに山田に関する多くの歌が収録されているとのことです。「山田」の史料は、平安期にはかなあり検出できるともあります。
 やはり、素直に棚田のことを山田といったと考えた方が良さそうです。山本と山田では、山本の方が古いと思われますが、山本→山田というのは、山本の田んぼが山田というのは考え直さないといけないようです。山本も山の麓の意味と考えれば、傾斜の緩やかな棚田を表すと言えなくもありません。最初は簡単に造成できる所から水田が開発され、土木工事のレベルが上がって傾斜のより急な部分を含めた山田という棚田になっていったかもしれません。
 江戸時代以降に開発された棚田も記録に残っているようですが、最初に棚田が開発され、その後、条里制のような大規模の開発につながった可能性もあるように思われます。岐阜県に安田が多いのですが、山田も多いので、水田の開発が急激に進んでいて、かなり同時期的に開発されたように思われ、時代を細かく見ていく必要があるように感じました。
以前の話は
名字:山本・山田(再)

2018年7月27日金曜日

佐那河内村

 棚田の本を見ています。全国棚田ガイドTANADASという棚田の紹介の本からの引用です。村名が神話につながる棚田の村ということで、府能地区が紹介されています。

佐那河内村は徳島市の南西に隣接する県内唯一の村である。日本の棚田多しといえども、村の名称が”棚田”に通じる意味を持っているのはおそらくこの佐那河内だけではないだろうか。
 この村の古地名は「佐那縣《さなのあがた》」「狭長村《さながむら》」という。「日本書紀」」神代記には、高天原で天照大神が御田としたのが「天狭田《あまのっさなだ》・長田《おさだ》」であるという。佐那縣の「佐那」は「天狭田」と同じく「棚田」を表す言葉である。
 また、「古事記」の天孫降臨条には「手力男神《たじからおのかみ》は佐那縣に座す」と記されているが、村西方の牛小屋地区には三社さんと呼ばれる「天岩戸別神社」が祀られ、主祭神は天手力雄命《あめのたじからおののみこと》」なのである。佐那河内村の原点は棚田にあり、日本最古を示す地名といえそうだ。

と書いてあります。日本書紀では、「狭い・長い」ということから形状を考えると棚田のことであろうと考えられ、田の原型が棚田であるという認識を当時の人は持っていたと思われます。この本では、棚田が江戸時代に開発されてこととか、昭和の時代になって開発された棚田もあるようで、棚田であれば、古い時代にさかのぼれるというものでもなさそうですが、私にとっては、佐那+河内と考えられ、河内の勢力がこの地域の棚田開発を行ったことが想像されます。
以下は、地名辞典からの引用です。
佐那河内「さなごうち」、「さながわち」ともいう。約70パーセントが山地で平地に乏しく、わずかに河川に沿う谷底平野や河岸段丘からなり、東西に細長い盆地状を呈する。耕地は山地斜面にも散在し、村域は県下有数の地滑り地帯となす。地名については「阿波志」は佐那河内守なる人物の所領であったことにちなむというが、未詳。
また寛平年間に名方郡が名東《みょうとう》・名西《みょうさい》の2郡に分かれたとき名東郡に属して佐長村と称したとも伝える(佐那河内村史)。とあります(角川日本地名大辞典36徳島県)
徳島県の地名、日本歴史地名大系37の中、名東郡の項には、遺跡としては根郷塚古墳のみ記されていて、古い時代のことは良くわからないようです。

2018年7月26日木曜日

田烏の棚田

 小浜市にある棚田で、最初は知らずに田鳥《たどり》と読んでいました。平成6年の碑文によれば、圃場整備されたとのことです。農作業が大変で、農道整備とか土地改良に踏み切ったとあります。車が入れるように整備されて、すっきりした棚田になっているように感じます。



角川日本地名大辞典18福井県に

田烏(たがらす)小浜市
若狭湾の内湾である田烏湾に面して位置する。中世では「多烏」と記される。田烏湾の沖合に沖の石があるが、「千載集」所載の「わが袖はしほひに見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし」は二条院讃岐がこの地にわび住まいしていたことから、この沖の石を詠んだものと伝える。古墳中期から奈良期~平安期の土器製塩遺跡が点在し、傾遺跡《かたぼこいせき》をはじめ、大浜・須浦《すのうら》・谷及《たんぎょ》・釣姫《つるべ》・湯ノ脇などの遺跡がある。

とあります。棚田は、開発するのが大変で、生産性が低く、普通は成立しません。何らかの事情があると思います。田烏の棚田の現在は半農半漁ですが、古代には製塩で成立した地域であったことから、棚田が成立した可能性はあります。もちろん交易の可能性もあります。
 福井県の歴史散歩には、小浜市の隣町の若狭町の安楽寺の記事があります。

国指定の重要文化財の木造聖観音立像が安置されており(秘仏)、ヒノキの一木造りで平安後期の作といい、顔や衣紋は穏やかに表現され、若狭の仏像の中でも評価が高い。この仏像を安置したのが、小野道風の祖父である篁《たかむら》と伝える。篁は遣唐副使に任じられながら、大使藤原常嗣と争い、病と称して行かなかったため、承和四年(八三七年)に隠岐(現、島根県)へ流罪となった。のちに、赦免されて都に戻る途中、海路強風のため若狭田烏の浜に漂着したという。上陸後、田烏から海士坂《あまさか》峠を越えてこの無悪《さかなし》集落に入り、しばらく休養のため滞在した。その際、隠岐から持ち帰った観音像をこの地に安置したという。

 無悪は、地名辞典では、一の坪・二の坪などの条里制の名残と思われる地名が存在し、町文化財の条里起点石と伝えるものが残る(若狭かみなかの文化財)とあります。
数多くの町文化財があると書いてあるので、文化が集積しやすい場所であったように感じます。

2018年7月24日火曜日

阿蘇石


 列島の考古学、古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社の「吉備の古代古墳」の項に阿蘇石が出てきました。以下二七頁から抜粋。
 河内の巨大古墳とよく対比されるのが、吉備の二つの古墳である。それは造山古墳(三六〇メートル)と、作山古墳(二八六メートル)で、五世紀前半と中葉に連続して築かれた。どちらも「つくりやま」なので、「ぞうざん」「さくざん」と呼ぶことが多い。現在は周辺が吉備路風土記の丘として整備されている。
 この二つの古墳の内容はあきらかではないが、造山古墳では、前方部に置かれた刳抜式《くりぬきしき》の石棺の身は阿蘇石でつくられている。古墳の南に隣接する千足《せんぞく》古墳(七〇メートルの前方後円墳)の、肥後の石室に似た特徴の横穴式石室とともに、九州に関係する要素に注目できる。・・・とあります。
 文面から、この阿蘇石は、阿蘇山の石のように思われます。吉備の勢力と阿蘇とは古墳時代からつながりがありそうです。
 またこの本では、二八頁に
 朝鮮半島と同時に九州と、またヤマト王権との関係を維持していた吉備の勢力は、瀬戸内の海上交通の要衝に位置する地理的優位性を十分活用していたことがわかる。・・と書いています。
 吉備国が倭の中心であって良いように感じました。

2018年7月20日金曜日

内藤と藤内

 名字で、前後逆のものがあります(上下か?)。お墓で「藤内」という名字を見つけました。「内藤」の横にあり、家紋も遠目には「違い鷹の羽」のようで同じに見えます。
内藤→藤内となったように思われます。田安という名字も安田が反転した可能性があります。

2018年7月18日水曜日

栃木県の安蘇

 下野国安蘇郡の地名です。平凡社歴史地名大系9栃木県の安蘇郷には万葉集の歌から麻を産する地域であろうとしています。680頁から範囲として県の南西部に位置。現在(出版時)の安蘇郡は東は栃木市・上都賀郡粟野町、南は佐野市・下都賀郡岩舟町、西は足利市、北は群馬県桐生市・勢多郡東村と接する。とあります。古墳時代の話として、当地域最古のものと思われる五世紀前半から中葉にかけての築造とされる佐野市堀米町の八幡山古墳がある。また古墳群も多く見られとかいてあります。それだけならなんということもないのですが、栃木県には河内郡というところもあります。現在の河内町は宇都宮市に近いところにあります。吉備国にあるものとこの安蘇郡、近畿地方の河内とこの地の河内町と関係がありそうに思われてきました。栃木県の安蘇郡は県の西側、河内町は県中央部にあり、古い時代に、吉備が中心であり、それが河内に変わっていったとすると、最初に安蘇郡が発展し、その後河内郡が発展していくこと(西の地域から東に移動)に対応しています。日本各地に前方後円墳が作られますが、計画・基本設計や実際のノウハウ的なこと無しに一から作るのは難しいと思います。築造には大まかには現地の人ですが、中央からの古墳築造の専門家集団が必要とされ、その指導の下に作られたはずです。こういった人たちが集まった場所が安蘇・河内の地名となった可能性はありかと思います。これは、古墳時代に地名があったかは定かではなく、律令制の開始時期の方が整合性あるので、今のところは確としたものではありません。
 ついでですが、茨城県にも河内郡《かっちぐん》があります。この地域も何かしらの関係があるかもしれません。河内の地名は多そうで、すべてをチェックできそうにはありませんので、思いつきの話です。麻生の地名で麻の産地のような記述も見かけたので、断定はできませんが、意識していこうと思います。

2018年7月13日金曜日

厩戸皇子の名前

 聖徳太子のことですが、
日本書紀では、「成人なさると、一度に十人の訴えを聞いても、間違いなく聞き分けることがおできになり、さらに先々のことまで見通された。・・・」とあります(日本書紀②小学館、日本古典文学全集)。
 豊聡耳皇子ということで、名前からして聞く能力が高かったということだろうと思います。当時の人にとって、まだ日本語としての言語の生成期にあって、一対一の会話でも大変なのに、非常に優れた人だったということのたとえのように思われます。トップの人は聞く能力が強く求められていたということで、比較の対象が、現在のような普通の会話を基準にはしていなかったのではという気がします。

2018年7月11日水曜日

阿蘇の地名

 阿蘇の地名が一般的なものか角川日本地名辞典で見ました。「あそう」は省きます。「あそ」だけを見ています。「あそ」の地名はそれほど多くは無さそうです。隋から裴世清がやってきたときに、阿蘇山の噴火がその時にあったのでなければ、鬼ノ城にやってきた可能性は大きいように思われます。宮城県の「あそ」は栃木県から移ったとのことです。吉備の阿曽も阿蘇山の噴火のためにやってきた人たちの移動かもしれません。岡山県と熊本県の関係がわかりません。鉄鋳物の生産に意味があるのかもしれませんが、これは妄想的な話です。
 以下、「あそ」が見つかった巻のメモです。打ち間違いや、省略がありますが、おおよそわかると思います。
4.宮城県
  安蘇の郷<色麻町>[古代]平安期に見える郷名。・・下野国の阿蘇郷からの移民開拓が行われたと考えられている(地名辞書)。色麻が飾磨だとすれば、播磨国飾磨郡に由来するものである。だから安蘇も郷名と考え、これを下野国安蘇郡に結びつけることは妥当である。
9.栃木県
  安蘇郡 下野国・栃木県の郷名。県南西部の秋山川・旗川
流域に位置する。[古代]平城宮跡出土木簡に「安宗」と見え、当郡を指すと思われる。万葉集の例があり、歌枕とのこと。安蘇郷(佐野市)
13.福井県
  阿曽<敦賀市>西を敦賀湾に面して位置し、東背面の山麓は急崖から運搬された土壌が扇状地状をなす。地名は、往古天変地異か開墾などで土地が裸になったか、あるいは荒地化した土地に集落が次第に成立したなどの理由で生まれたのではないかという(敦賀旧町村地名考)。麻生(あそ)というところもあります。こちらは古くは「あそふ」とのこと。
20.長野県
  安宗郷《あそのごう》<上田市>[古代]平安期に見える郷名。「和名抄」小県郡八郷の一つ。高山寺本は「阿曾」、東急本は「安曽」の訓を付す。条里遺構の残った塩田地区に推定されている。
24.三重県
  阿曽<大宮町>紀伊山地と大台山地の山間。屈折しながら北流する大内山川の下流域に立地する。中央部は低平地。地内の神ノ木《こうのき》は文永五年に豊受皇太神宮第31回遷宮御料材の阿曽御杣となった(御杣山記録)。・・・
  阿曽<南島町>熊野灘に臨むリアス式海岸の1つ鷙湾の東端に位置する。当地の片山寺(臨済宗)にある雲板の裏面に「志州英虞(あご)郡阿曽御園 片山冷泉庵 文明六年甲午三月」と刻されており、当時志摩国であったこと、神宮の御園であったことを証している。・・
26.京都府
  阿蘇海《あそかい》 与謝郡岩滝町と宮津市にまたがる、天橋立西面の内海。「あそみ」で「遊の浦」の遊びからの説があるようです。
27.大阪府
  麻生とあるので省略。
28.兵庫県
  阿曽<太子町>揖保川支流林田川下流域左岸に位置する。[中世]阿曽村 戦国期に見える村名。
33.岡山県
  安蘇<美作町> 古くは阿曽・阿蘇とも書いた。「東作誌」に「近代安蘇の文字に改む、年号不詳」とある。地名の由来は鎌倉期北条氏の族阿曽弾正小弼が鎌倉を落ちて美作の当地に来住し阿曽と称したという(東作誌)。また一説には地内の阿蘇宮からともとある。
  阿曽(あぞ)<総社市>足守川中流右岸に位置する。古代には「あそ」と読んだ。当地では古くから鉄鋳物の生産が盛んで、中世には鋳物製品を吉備津彦神社や吉備津神社に納めることによって営業上の特権を得ていたものと思われる。吉備津神社の鳴釜神事に使用される釜は当地で製作されていたが、現在その技術は絶えた。
[阿曽郷]奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」備中国賀夜郡十四郷の1つ。高山寺本は「阿曽」、東急本は「阿宗」につくりそれぞれ「安曽」の訓を付す。正倉院文書や平城宮出土木簡の話があって・・・天平十二年にはすでに五〇戸一郷制へ移行しているにもかかわらず依然として里名を使用している点が注目される。(私には良くわかりません)郷域は、現在の総社市北東部の東阿曽・西阿曽一帯に否定される。
43.熊本県
  阿蘇<阿蘇町>阿蘇谷の西部に位置する。[古代]阿蘇郷 平安期に見える郷名。「和名抄」阿蘇郡四郷の1つ。高山寺本には「阿曽」とする。以下省略。

2018年7月9日月曜日

国名からの妄想

前回の続きです。
 阿蘇山が火山であると認識されていたことで、火の国から肥前・肥後国が出てきました。火があれば水です。近江の「ミ」は水の意味で、琵琶湖があり、水の国のイメージに思われます。紀国は木です。それで行くと、大和は山になります。山があれば川です。思いつくのは河内です。すると対応関係からヤマトの「ト」は外になります。山の外と川の内です。名前ができたとき、川が近くで山が遠くにあったことにります。倭国が吉備に中心があったとして、その時に国名ができたとすれば、大和と河内の位置関係は合っています。出雲は雲が出る方向なのかとか、吉備・阿波などどうしてできたのか、クリアで無いところがあり、まだまだ考えないといけないですが、倭国が吉備であるということと矛盾はありません(河内が中心と考える方が良いとも思えるので間違いかもしれません)。
大和と河内は昔呼んだ本にありました。
鬼ノ城で発掘された土器は七世紀後半の物のようです。どうも遣隋使の返使が吉備に来たというのは無理筋っぽいです。

追記:R01.08.10
吉備が倭国としても良いのではと思うようになりました、
案外、単純な名前のように思ってきました。
・火の国、肥前とか肥後とか阿蘇山があり噴火したことから。
・水の国、淡海(近江)、琵琶湖があるから。遠江はわかりません。
・木の国、紀国、木が多いから。
・ヤマト・河内、山とか川から。
紀国が追加されただけです。
阿蘇山の噴火がいつごろかがわかりません。
気象庁のページでは
553年(欣明天皇14)噴火?
とあります。かなりの信頼度が低いデータのように思われます。
有史以降も案外噴火があるので、記録にない時でも数多くあったと思えます。
国名がいつの時代かはこれだけではわからないようです。

2018年7月7日土曜日

遣隋使の話の見直し(倭国=吉備国?)

遣隋使が見た風景 ー東アジアからの新視点ー 氣賀澤保規 編、八木書店
表1の遣隋使関係資料、隋書からの抜粋です。日本書紀推古紀は無視します。
(1)開皇二〇年(六〇〇)(倭国伝)
  倭王が使者を派遣
(2)大業三年(六〇七)(倭国伝)
  倭王、使者を遣わし、沙門数十人に仏法を学ばせる。その国書で「日出ずる処の天子・・」で煬帝を怒らせた。
  大業四年(六〇八)(倭国伝)裴世清の遣使
  文林郎の裴世清を倭国に。朝鮮半島沿いに海路を進み、聃羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国を経て倭国の「海岸」に達す。・・・以下略
 ここで「秦王国」がどこかということですが、(厳島・周防?)とあります。後ろの資料集のところを見ると・・、また竹斯国に到り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷州となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。
と訳してあります。秦王国が詳しくは不明ですが、周防とはs音で始まり、また後に遣唐使船などの建造地でもあり、重要な地域でありそうなのかも知れませんが、倭国になってから詳細が省かれすぎています。秦王国が中国の夏の国に似ているように思ったのは、この国が発音などが朝鮮や中国に近いものに裴世清たちが感じたのかもしれません。日本語の形成期にあったことを想像させます。日本書紀に従えば、裴世清は難波津にやってきたということになりますが、倭国付近になってから十余国と、急にぼやけた表現になります。おかしいですが、秦王国から国名が一致しなくなり省略したとも思えます。聖徳太子や推古天皇がいなければ、難波津に来る必要がなく、たとえば、倭国が吉備の国であっても良いわけです。古墳時代に吉備の国に大きな前方後円墳があります。引き続き倭国から遣隋使を送ったとしてもおかしくはありません。
 倭国が吉備であった可能性はあるのかということですが、ありうると思われます。
岡山県には古代山城とされる鬼ノ城があります。図書館で借りてきた本(注1の本)丸写しですが、
8頁から
鬼ノ城は、標高三九七メートルの鬼城山の山頂付近に築かれた古代の山城である。鬼城山は吉備高原の南縁に位置するため眺望がよく、山頂を取り巻く遊歩道から南を見ると総社市街地から吉備津神社にいたる総社平野を直下に見下ろすことができる。この平野は古代吉備の国の中心地であり史跡も多く残る古代の重要地点である。また、平野の向こうには古くからの交通の要所である瀬戸内海を望むことができる。このように平野からの攻撃に対していち早く状況を見渡すことができるという立地条件のため、鬼城山は山城の立地として極めて優れているといえる。
58頁から
鬼ノ城は岡山県総社市奥坂に位置する鬼城山《きのじょうざん》に築かれた山城である。・・省略・・城壁は基本的に版築《はんちく》の土塁で築かれているが、一部石塁で築かれており、一般的な印章としては石城のイメージが強いようである。規模は城周二七九〇・八メートルで、城門が四カ所、通水口をもつ水門が五カ所、城内に礎石建物が七棟確認されている。築城年代に関しては、百済滅亡に関わる白村江の戦い(天智天皇二[六六三]年)を前後する七世紀後半ころと考えられている。・・特徴の説明があり・・最後に、城壁の内外床面の敷石である。このような例は日本の古代山城では確認されていない。朝鮮半島についてもほとんど知られていないが、稷山蛇山城の城壁の外側に見ることができ、百済後期の王城である扶蘇山城では城壁の内側に見ることができる。
43頁に戻り
古代山城のいくつかは「日本書紀」などの官選史書に記録が残されている。一方、鬼ノ城はいっさいそのような歴史書にはその名が見当たらず、誰が、何のために、いつ作ったのかわからない、ただ温羅伝承(この部分はあとで)として人々の記憶の中に残ってきた謎の城であった。
とあります。
これらのことから、鬼ノ城は古代倭国の王城であったのではと思います。
日本書紀では、天地開闢以来の連続した正統性を主張しています。ヤマトの勢力は倭国と日本が並立したことは認められません。しかしながら遣隋使で倭国は記録に残っています。倭国から日本に連続的に変わったことを主張しなければなりません。従って隋からの返使の裴世清が難波津に来たことにし、倭国の痕跡のある鬼ノ城を無視することにしたと思われます。小野妹子の国書紛失事件で、言い訳対策をしています。
また、二〇〇六年以降の発掘調査で、円面硯《えんめんけん》と呼ばれる硯が見つかっている。当時の社会においては、識字層は豪族・官僚など支配階層に限られていたと考えられ、この硯の出現は鬼ノ城内に文字を書いた官人達がいた証明であり、文字による城内の管理運営体制や中央倭政権との連絡交渉を想像させるものである。とあります。
 私には、もっと強く、隋などの外交交渉を行っていたと言ってもらいたいところです。
 中国側の記録に阿蘇山の話が唐突にあったと思います。実は、鬼ノ城の南側に阿曽地域があります。68頁には、この地域は正倉院文書の「備中国大税負死亡人帳」(天平一一[七三九]年)に記された賀夜郡阿蘇郷《かやぐんあぞごう》に該当すると考えられている。とあります。
 裴世清が来たときに、この地には渡来系の人がいて、地名が話題になり、阿蘇山の話にはずみ、記述された可能性があります。少し、納得できると思います。

温羅伝承
72頁に、岡山市の中山にある吉備津神社に伝わる伝説である。そこには、鬼ノ城に住んで人を困らせている温羅《うら》という鬼が、大和から派遣された将軍によって退治されるという話である。
とあり、この本では、吉備と大和の対立を古い時代と考えているようですが、私には、安田の地名(大和の勢力)が吉備の国を包囲しているように見え、対立は七世紀後半の時期ではないかと思われます。伝説も新しい時代のことで残っているのかもしれません。倭国=吉備国と考えると、日本書紀で日本は瑞穂の国で稲作主体としていますが、キビ・アワなどの国名を用い、吉備国を軽視してる雰囲気があります。後に吉備国の名誉挽回に、代表するような名前の吉備真備のような人物が現れることにつながってるように思われます。
 世間的な考え方とずれが大きいですが、鬼ノ城で七世紀前半のものが発見されれば、倭国=吉備国が、状況証拠ではなく、確実に成立するので期待しています。

注1:鬼ノ城と吉備津神社ー「桃太郎の舞台」を科学する シリーズ「岡山学」7、岡山理科大学『岡山学』研究会、吉備人出版

2018年7月3日火曜日

日本語の音節構造

世界言語の中の日本語よりの引用です。
67頁に日本語の音節構造について、

 日本語の音節は、すでに触れたように、CVという単純開音節を基本とし、
促音、撥音以外に閉音節(CVC)を持たない。このような開音節型の言語
は、ウラル・アルタイ語を含めてユーラシア内陸部の言語にはほとんど見ら
れない。

とあります。Cは子音で、Vは母音だと思います。アイヌ語と朝鮮語ではどうかと思いました。
 日本語とアイヌ語、片山龍峯著、鈴澤書店発行
を借りてきて見ると、26頁に日本語とアイヌ語の違いの項があり

 発音上の大きな違いは、アイヌ語では単語の終わりが子音で終わる言葉がかなりあると言うことである。日本語の場合は、母音を伴っている。両方の言葉を比較してみよう。
 たとえば、itak(話す)という単語。これを日本語で書き表そうとするとイタックとかイタク、イタク(半角のクは実際は小文字になっています)とするしかない。日本語では子音だけを書き表すことができないからだ。sukup(育つ)もそうだ。最後のpだけを日本語では表せない。スクプかスクプかスクップのように核しかない。アイヌ語研究者は仮名文字で表すためにさまざまな苦労をしてきた。

とあります。
 また朝鮮語ですが、日韓対照言語学入門、油谷幸利著、白帝社発行の58頁に末子音の対応というのがあります。漢字音での話ですが、対応表があります。これを横に並べました。順番に対応しています。

古い時代
 中国語・・m、n、η、p、t、k
 韓国語・・m、n、η、p、t/l、k
 日本語・・ん、ん、う・い、ふ(旧仮名遣い)、ち・つ、く・き
現代
 中国語・・ー、n、η、-、ー、ー
 韓国語・・m、n、η、p、l、k
 日本語・・ん、ん、う・い、う、ち・つ、く・き
(注:このηという文字はngの発音のように思われるが字体が違うかもしれません。ーは消滅の意味)
 韓国語においては古い中国語のmとnの区別をよく保存しているが、日本語で
は両者の区別は存在しない。ηも当時の日本人の耳に聞き取れなかったが、
何かの音があるという感覚はあったらしく、「う、い」で写している。
 語末のtとkは、日本語においては母音を伴ってはいるものの古い音をよく保存している。
 これに対し、北京方言ではnとηを除いて語末子音が消失しているが、現代中国音でも、広東方言のように語末のp、t、kを保存している方言もある。

とあります。朝鮮語やアイヌ語にある、単語の子音で終わるものが日本語ではないということです。
 単語の終わりに子音が、あり・なしを考えると、個人的には、最後に母音で終わる方が進化形のように思われます。
英語ですが、10mくらい離れたらcapとcatの違いなどわかりにくくなると思います。キャップとキャットの違いの方がわかりやすい気がします。この本には促音の「っ」ですが、欠配(けっぱい)、欠点(けってん)、欠陥(けっかん)、欠損(けっそん)の四種類の「っ」を韓国人は聞き分けるとあります。普段から気にしない日本人の立場なので間違ってるかもしれません。単なる憶測ですが、CVCよりもCVの形の方が、単純化して、よりコミュニケーションが取りやすくなると私には思われます。従って、系統的なことを言えば、日本語はアイヌ語とも朝鮮語とも関係のない言葉であるということになりますが、クレオール語のようなものだと考えれば、優れたCV形式を日本語は取り込んだと考えられます。違いよりも似ているところを見ていくことで親戚関係にあるという話になってきます。中国語で末子音が消滅していくのも、おそらく効率化を目指す言語としての当然の進化のようにも思えます。