小浜市にある棚田で、最初は知らずに田鳥《たどり》と読んでいました。平成6年の碑文によれば、圃場整備されたとのことです。農作業が大変で、農道整備とか土地改良に踏み切ったとあります。車が入れるように整備されて、すっきりした棚田になっているように感じます。
角川日本地名大辞典18福井県に
田烏(たがらす)小浜市
若狭湾の内湾である田烏湾に面して位置する。中世では「多烏」と記される。田烏湾の沖合に沖の石があるが、「千載集」所載の「わが袖はしほひに見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし」は二条院讃岐がこの地にわび住まいしていたことから、この沖の石を詠んだものと伝える。古墳中期から奈良期~平安期の土器製塩遺跡が点在し、傾遺跡《かたぼこいせき》をはじめ、大浜・須浦《すのうら》・谷及《たんぎょ》・釣姫《つるべ》・湯ノ脇などの遺跡がある。
とあります。棚田は、開発するのが大変で、生産性が低く、普通は成立しません。何らかの事情があると思います。田烏の棚田の現在は半農半漁ですが、古代には製塩で成立した地域であったことから、棚田が成立した可能性はあります。もちろん交易の可能性もあります。
福井県の歴史散歩には、小浜市の隣町の若狭町の安楽寺の記事があります。
国指定の重要文化財の木造聖観音立像が安置されており(秘仏)、ヒノキの一木造りで平安後期の作といい、顔や衣紋は穏やかに表現され、若狭の仏像の中でも評価が高い。この仏像を安置したのが、小野道風の祖父である篁《たかむら》と伝える。篁は遣唐副使に任じられながら、大使藤原常嗣と争い、病と称して行かなかったため、承和四年(八三七年)に隠岐(現、島根県)へ流罪となった。のちに、赦免されて都に戻る途中、海路強風のため若狭田烏の浜に漂着したという。上陸後、田烏から海士坂《あまさか》峠を越えてこの無悪《さかなし》集落に入り、しばらく休養のため滞在した。その際、隠岐から持ち帰った観音像をこの地に安置したという。
無悪は、地名辞典では、一の坪・二の坪などの条里制の名残と思われる地名が存在し、町文化財の条里起点石と伝えるものが残る(若狭かみなかの文化財)とあります。
数多くの町文化財があると書いてあるので、文化が集積しやすい場所であったように感じます。
0 件のコメント:
コメントを投稿