安田仮説は本のタイトルのつもりでした。内容は安田という名字についての仮説です。 名前の発生が七世紀ごろと考えられ、この時代をきちんとしないといけないということで、古代史に首をつっこむことになりました。内容は昔と今では言ってることが違うことも多いです。現時点の考え方は以下のようなものです。 1.聖徳太子や推古天皇はいなかった。蘇我・物部の争いもなかった。 2.大化改新もなかったが、その後の話の展開で必要とされたのだろう。 3.血縁関係はどうだかわからないが、孝徳天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇は存在しただろう。天智天皇と持統天皇には親子関係があることは否定しない。 4.遣隋使を送った倭国は「大和」にはなく「吉備あたり」だろう。 5.天武天皇は渡来系の人で、出雲国譲りは天武天皇(大海人皇子)の時代のことだろう。 6.日本書紀は中国の「唐」向けの文書で、八世紀初めの日本の立場を良くしようとするために潤色が多くあるのだろう。 ・・・・・・
2018年7月24日火曜日
阿蘇石
列島の考古学、古墳時代、右島和夫・千賀久著、河出書房新社の「吉備の古代古墳」の項に阿蘇石が出てきました。以下二七頁から抜粋。
河内の巨大古墳とよく対比されるのが、吉備の二つの古墳である。それは造山古墳(三六〇メートル)と、作山古墳(二八六メートル)で、五世紀前半と中葉に連続して築かれた。どちらも「つくりやま」なので、「ぞうざん」「さくざん」と呼ぶことが多い。現在は周辺が吉備路風土記の丘として整備されている。
この二つの古墳の内容はあきらかではないが、造山古墳では、前方部に置かれた刳抜式《くりぬきしき》の石棺の身は阿蘇石でつくられている。古墳の南に隣接する千足《せんぞく》古墳(七〇メートルの前方後円墳)の、肥後の石室に似た特徴の横穴式石室とともに、九州に関係する要素に注目できる。・・・とあります。
文面から、この阿蘇石は、阿蘇山の石のように思われます。吉備の勢力と阿蘇とは古墳時代からつながりがありそうです。
またこの本では、二八頁に
朝鮮半島と同時に九州と、またヤマト王権との関係を維持していた吉備の勢力は、瀬戸内の海上交通の要衝に位置する地理的優位性を十分活用していたことがわかる。・・と書いています。
吉備国が倭の中心であって良いように感じました。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿