2018年12月29日土曜日

火とfire

 国名で肥前とか肥後の国がもともと「火」の国だったとのことで、英語ではfireであることを思い出しました。「i」はアイですが、フィと読めなくはありません。「火」の「ひ」も「ふぃ」であったかも知れないと考えると、英語と日本語が共通の言葉でふぃがあったかもしれません。アフリカ大陸で生まれた人類が中近東で分かれて世界に広がるときに、火を使っていたことが考えられます。多分そのころは火が重要なものであったと思われます。人類の共通的なことばとしてあったとして不思議ではありません。火がああるなら水はどうだということになります。英語ではwaterです。水とのつながりはまったく無さそうですが、日本では「わたのはら」は海原です。伝言ゲームで海になってしまったようです。「古事記の真実」にはミトラ・ヴァルナ神の働きは「水の神」である(同書一三七頁)でmito→midu→mizuかもしれません。かなりな無理筋ですが。みそぎの「み」の方が可能性はあるかもしれません。インド神話では火の神はアグニというそうです。これも英語ではアークに相当するのかもしれません。アーク溶接のアークです。火といっても、flameとか炎(ほのお)とかあるので、いくつも時代によって複数の言葉があるようには思います。
 梵字で入ってきた言葉が仏教関係であるので、仏教が日本に入ってきたときに、寺院建築も同時に入ってきたはずです。瓦のカッパラからのきたとしての発想です。「日本建築様式史、美術出版社」によれば、日本で初めての本格的な寺院は飛鳥寺である。用明二年(587)、蘇我氏は仏教受容をめぐる物部氏との戦に際して寺院の建設を発願し、勝利後に本格的な寺院を計画した。翌年に、百済から仏舎利とともに僧・寺工・露盤博士・瓦博士・画工とともに寺院経営に必要な人々が派遣され、約20年後に寺院は竣工した。ということでどこまで本当かはわかりませんが、いろいろな専門の人がやってきて、言葉も持ち込んだのは確実です。この時に建築での重要な構造物である「はしら」ということばが導入されたと創造して関連する英語と共通する言葉を考えてみました。柱を英語ではcolumnで関係なさそうでした。しかしpostには柱の意味があり、子音ではpstですが、p→h、sはそのまま、t→フラップTでr化とすればhsrで柱になると思われます。しかし、語源由来辞典で見ると
「あるところに置く」「配置する」「立てる」といった意味のラテン語「ponere」の過去分詞男性形が、フランス語「poste」を経て16世紀に英語化し、女性形になって「郵便」の「post」になった。
とあります。これでは英語と関係はありません。国語辞典を見ていると、柱は、天井と床をつなぐ部分なのでつなぐという意味では、橋と関係あるかもしれません。端をつなぐのが橋なので、こちらが同語源かも知れません。古事記では神様も柱と考えるのは、寺院建築で柱に重要な構造物としての意識を持ったことから表現された可能性はあります。
 瓦で「かわら」は訓読みのように思われます。もともとの日本語が訓読みと思っていましたが、中国由来のものが音読みで、それ以外のもの(梵字由来のものとか)が訓読みだろうという気がしています。

2018年12月24日月曜日

古事記の稗田阿礼はインド人か?

 最近、年賀はがきの季節で、年賀状を準備している人も多いと思います。はがきですが、漢字では葉書で、もともとは文字を葉っぱに書いたことから起こったといわれます。昔にインドでは葉に文字を記し、中国では紙に書いたので、中国を介して葉書が日本に伝わったように考えられているようです。言葉というのも、言語と葉っぱの密接な関係を示しているようです。私は直接にインドから日本に伝わってきた可能性があると思っています。
 梵字に関心を持っていて、ひょんな事から、「古事記の真実、神代編の梵語解、二宮陸雄著、愛育社発行」の本を借りてきて読み始めました。サンスクリットで古事記は理解できるとのことで話は進みますが、流して読んでます。太安万侶は実在の人物で、墓誌が見つかっています。発見された場所がトンボ山ということで、このトンボはサンスクリットでは「悲嘆の地」で、英語の墓(tomb)やラテン語の墓(tumba)と同語源であろう。とのことです。お墓の山ということで整合性があります。
 四三頁になり、引用しますが、
『私の考えでは、結論から言えば、この古事記の「神代編」を口述した稗田阿禮は恐らくは朝廷に使えたインド人であって、サンスクリット語で暗唱し、口承したと思われる。神代編はサンスクリット語で口伝されていたのだろう。そして太安萬侶はこれを漢文で記し、その際、意味の確かと思われた語は彼の判断でその意味の漢字を使って表記し、意味の不明な者は漢字の音を並べて表記したのであろう。すでに一部は引用したが、そのことを太安萬侶はくどいほど言い訳して、次のように書いている。
「上古の時、言葉《ことば》意《こころ》並びに朴《すなほ》にして、文を敷き句を構ふること、字におきてはすなはち難し。已に訓によりて述べたるは、詞《ことば》心に逮《およ》ばず、全く音をもちて連ねたるは、事の趣更に長し。ここをもちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓をもちて録《しる》しぬ。すなはち、辭理の見え叵《がた》きは、注をもちて明らかにし、意況の解《さと》り易きは、更に注せず。また姓《うぢ》におきて日下《にちげ》を玖沙訶《くさか》と謂ひ、名におきて帯《たい》の字を多羅斯《たらし》と謂ふ、かくの如き類《たぐひ》は、本《もと》の随《まにま》に改めず』
と書いてあります。
 そのあとに、稗田阿礼の名前をサンスクリットで解釈していますが、「ぴえだ」と読めば違ってくると思われるので以下省略します。
 とにかく、稗田阿礼は、当時の人間録音機みたいな人であったということです。私自身はとてもこのような異常な記憶力を持つ人がいたとは思えなくて、太安万侶の自作ではないかといままで考えていました。しかしながら彼がインド人であったとすれば辻褄が合ってきます。インド人であれば、サンスクリット語を読み書きできます。しかもこれは表音文字です。つまり聞いたことをサンスクリットであらわせば、言った内容がわからなくても再現できます。その上、サンスクリット語は日本語の母音が5個(現在)ですが、もっと多くあります。古代の日本語で母音の数が多かったというのに対応しています。さらに言えば、サンスクリットは文字がパーツの組み合わせです。うまく使えば、速記できるのではと思われます。私も昔、速記が出来れば良いなと思って時がありました。昭和の時代にあっても使われていました。参議院式とか衆議院式とか使われていたようです。現代の速記に使われる文字がサンスクリットのように見えてきます。
 稗田阿礼について、この本からまた引用しますが(面倒なのでふりがな略あり)、
『時に、舎人ありき。姓は稗田、名は阿禮、年は是二八、人と為り聡明にして、目に渡れば口に読み、耳に拂《ふ》るれば心に勒《しる》しき。即ち阿禮に勅語して帝皇《すめらみこと》の日継《ひつぎ》及び先代《さきつよ》の舊辭《ふること》を誦み習はしめたまひき。然れども運《とき》移り世異《かは》りて、未だその事を行ひたまはざりき」・・』
と書いてあります。「心にしるしき」の部分がどうも稗田阿礼の記憶力抜群の解釈になっているようです。私にはここは単にレトリック的なもので、稗田阿礼が速記の名人であったことを言っているように思われます。稗田阿礼が自分で漢字を用いて書けば、太安万侶は不要です。漢字は速記には不向きで、サンスクリットが速記に優位であったため、稗田阿礼の存在意義があったということです。古事記が稗田阿礼と太安万侶の両者によって完成されたのも、稗田阿礼がサンスクリット的な他の人には読みにくい速記文字を口述し、太安万侶がそれを聞き取り、漢字を用いて表記し、一般化したものだという気がしてきました。おそらく稗田阿礼が死んでしまっては他の人が読むことができない状態を何とかしなくてはとして古事記が作られ、これをもとに日本書紀が作られたといういことになると思います。稗田阿礼はインド人と考えることにより、すっきりと説明することができます。古事記とインド神話の関連性も整合性あるものとして考えに入ります。
 この「古事記の真実」によれば、古事記の表記で「小字」という漢字文に添えられた「上」や「去」があり、いろいろな説があるが、サンスクリット語の独特の母音を表していて、このサンスクリット語の母音を表す文字が行草体の「上」や「去」に酷似しているということです。日本語にない母音を表すための表音記号と考えているという説も否定はできないです。まだ最初の方を読んている段階で、最後まで読めるかわかりませんが、稗田阿礼のインド人説は有力だと思いました。

追記:H30.12.28
「古事記の真実」という本を読み始めましたが、古事記をすべてサンスクリットで解釈するのは問題だという気がしてきました。地名で肥国は火の国だと思っていましたが、「ヒノ」はサンスクリットで「放棄された、低地の、欠損した」意味であろうかと書いてあります。現段階では受け入れがたいです。参考になるところも多いように思いますが、かなり苦しいところもありそうで、その辺が確認できないのが残念です。

追記:H31.01.04
稗田阿礼の名前ですが、稗田はおいといて、阿礼の方ですが、「アレ」的な発音で考えていました。この名前は当時の日本ではない名前のように思えてきました。ムハンマド・アリとか存在しているのでイスラムの世界ではありそうな名前です。稗田阿礼がイスラム系のインド人であったとしておかしくはありません。

2018年12月20日木曜日

国語に入った梵語

 国語に入った梵語辞典、平等通照編著、印度学研究所発行の最初の方を見ています。
「直接の移入ー南海のルートー」のところです。・・・義浄という唐の僧が海路からインドを往復したということから、逆にインドの達磨大師は広東に到達している。暖流が流れていて、漂流すれば、インドシナ半島を出航した船は、和歌山県紀伊半島に辿りつくのである。このようにして、扶南(Funan)の音楽家仏哲や印度の婆羅門僧正が紀伊に辿り着き、朝廷の保護を受け、東大寺の大仏開眼供養に雅楽(印度仏教音楽)を奏し、貢献している。梵語学の碩学高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)博士によれば、那智の滝の那智はインド人がその滝を見て、『ナディー・ナディー』(nadi?、川だ、川だ)と呼び、それを聞いた住民がその滝を『那智の滝』と名づけたという。鳥居は梵語のトーラナ(torana?)門、瓦はカッパラから来た、と言われる。夫々が日本にないものなので、外国語をそのまま使ったという。当時の航海術を考え、印度支那・インドネシアを中継とする、中国とインド・アラビアとの海上交通を考えば、極めてあり得ることである。現に婆羅門僧正に関する和歌が万葉集に収録されている。
『婆羅門の造れる小田をはむ鴉、まなぶたはれて、幡《はた》ほこに居り。』
 婆羅門・はた・ほこ等、日本にないものは、そのまま外来語ー梵語を用いたのである。
 海路よりの直通の移入梵語は字数は少なかったろうが、口から口への生々したもので、強力であったと思われる。
とこの本に書いてあります。この本での「鳥居」の項に、梵語のトーラナから来たと言われる。とありました。瓦は出てなくて、「平瓦」に平+瓦として、瓦は梵語(Kapara)とありました。
 はた(幡)は梵語でPataka?、ばんと読むとのことで、高楠博士の現代仏教昭和二年、五月号(四-三七号)四八頁(獅子王無畏)幡(Pataka?)flagである。
と書いてあります。現在は「はた」と言ってますが、昔は「ぱた」の可能性大です。あれっと思い、ハ行を見ると
「鉢」梵語Patraとか「ふた」梵語puta?
とかあります。昔は「ぱち」、「ぷた」と言ってたことをうかがわせます。現在のひよこが昔は「ぴよこ」というのと同じで、p→hの発音の変化を示しています。kapara→kaharaです。万葉集の歌はどんなかわかりませんので、また暇なときに調べるつもりです。?の単語は少し表記が違い(表示できない)ので要注意です。

2018年12月8日土曜日

「正倉院文書の世界、丸山裕美子著」 のメモ

「正倉院文書の世界」を読んでいるところですが、図書館の返却が迫ってきました。
購入しようと思いましたが、今は手に入らないようです。残念です。
この本で、さらっと述べられていますが、あれっと思ったことです。
・正倉院文書は東大寺写経所に関わる文書が中心ということです。この東大寺写経所はもともと藤原光明子の私的な写経所を前身として、光明子が聖武天皇の皇后に立てられると、国家機構に組み込まれていったとのことです。藤原氏の勢力の拡大とともにあるようです。公私混同のような気がしますが、経緯を詳しく知りたいと思います。
・戸籍についてですが、御野国戸籍が古い形で、西海道諸国のは新しい書式によって作成されているとのことです。律令制が全国一斉に始まったのではなく、地域によって時間差があった可能性があります。
・大仏開眼供養の儀式が、天平勝宝4年、僧正菩提僊那《そうじょうぼだいせんな》を開眼師として執り行われた。南インド出身の僧とのことです。つまりこの時に梵字がもたらされたと考える人がいます。
どなたかが、この辺りを調べてればと思います。正倉院展を毎年見ていて、まったく気がつかなかったので、どこかでひっそりと研究されているのかもしれません。

2018年12月7日金曜日

正倉院文書

 最新の情報は国会図書館リサーチ・ナビです。
 この中の研究入門書の紹介に
正倉院文書の世界 : よみがえる天平の時代、丸山裕美子 著、中央公論新社,があり、
この本の終章に資料について詳しく書いてあります。以下は自分のメモで確認の資料です。
①「大日本古文書」編年文書
  この本は図書館によっては所蔵しているところあり、借りることもできます。編年文書とあるものが正倉院文書です。ほかのものと間違わないようにしないといけません。私は近くの図書館にあることを確認しました。
②正倉院文書目録
  東京大学史料編纂所は、1960年から毎年秋の正倉院の開封のさいに、原本調査を行っており、それに基づく文書の接続・復元の成果を『正倉院文書目録』に編纂している。これによって、私たちは現段階における原型復元の最新成果をしることができる。とのことですが、こちらは簡単には見れないようです。正倉院文書のデータがあり、裏面のデータとかわかるそうです。今までの間違いとかが訂正されているそうですが、よくわかってはいません。
③宮内庁正倉院事務所 編『正倉院古文書影印集成』
 影印というのは、写真撮影のことのようですが、モノクロコピーのようなものです。後ろの方には活字で説明があります。近くにおいてあるところがあれば役立つとは思われます。古文書を読むことができるレベルの人には有用だと思います。私も何とかレベルアップしたいものです。
東京大学史料編纂所データベース外部サイトへのリンク(東京大学史料編纂所)
 「奈良時代古文書フルテキストデータベース」を選択します。 「項目検索」を選択すると、本文中の語句や和暦年月日から検索できます。と国会図書館リサーチ・ナビにあります。手軽に見ることができます。①の文書をパソコンの画面に出し、しかも印刷できます。借りた本では気をつかいますが、こちらはメモとか自由です。しかし検索がありますが、何もわからない状態ではどのようにしてよいかわからず、先にすすめません。①の文書を見ながらであれば何とかなりそうです。
 とにかく、ありがたい時代になりました。正倉院展とか、知らずに展示を見て驚いているだけでしたが、来年は予習ができ、もう少しポイントを絞って見られそうです。この宝の山を活用できれば良いのですが。

2018年12月4日火曜日

カタカナの「ン」

以前に漢字からカタカナ、梵字からひらがなと言ってましたが、間違いのように思われてきました。
梵字の「ア」が次のものです。
漢字の「阿」に見えなくもないですが、それはおいといて、
梵字の「アン」が次のものです。梵字の「ア」の上に装飾された図形があり、「アン」となります。

上の装飾された形の部分が、カタカナの「ン」に似ています。カタカナの「ン」はこの梵字の修飾するところから出てきたように思われます。この字では梵字からカタカナが生まれていて、前に言っていた「梵字→ひらがな」はおかしいことになります。再検討しないといけないとは思います。

ついでで思いついたことですが、仮名で長音化するときに棒線を使いますが、梵字の「イー」などは縦の曲線で、梵字を理解してる人にとっては、音を伸ばすのに棒線を使うのは抵抗ないように思います。梵字からの可能性はあります。

あと、「か」に点をつけて「が」にするとか、「は」に○をつけて「ぱ」に変化させるものなど、梵字の修飾の知識があって可能になったような気がします。先ほどの「アン」の梵字であれば順番では「ンア」となります。日経新聞を見ていて「嵜」という文字がでてきました。「崎」という字と同じ扱いと思います。「枩」というのも「松」を示しているのを思い出しました。昔の人は位置にこだわらわず、パーツの組み合わせで理解していて、細かいことは気にしていないような気もしました。日本語の文字は、縦書き・横書き、右からでも左からでも自在で、すごいことかもしれません。
「は」ですが、昔は「pa」と発音したそうです。従って、「ぱ」の文字が現れるのは後の時代ということです。濁音や半濁音の表示は、カタカナやひらがなができてから共通して考えられたもののようです。

2018年12月3日月曜日

神祇官と太政官

 律令制ではともに「官」で「省」より上位に位置づけられているのだけれど、神祇官移という書類が宮内省あてに出されていて、「移」は上下関係にない役所間で使用され、実質的には「省」と同列であることがわかる。実際、神祇官の長官である神祇伯の相当官位は従四位下で、八省の長官の正四位上・下より下にランクされている。
と書いてあります。(正倉院文書の世界、丸山裕美子著、中央公論社発行、108頁)
 最初は、対等であったのが、鎮護国家ということで仏教が取り入れられ、神祇官の地位が太政官に較べて低下していることを示しているのだと思います。