2019年5月23日木曜日

聖徳太子とサンタクロース

 最近、修験道に興味を持っていて、中世の時代に山伏が全国を移動していたことも重要なのではという気がしています。謡曲入門、伊藤正義著、講談社学術文庫の最初の方の「安宅」からです。
 源義経が奥州に山伏に姿を変え逃れるとき、安宅の関で、弁慶が東大寺復興の勧進の山伏であると偽り、経巻を広げ、勧進の趣旨を即座に読み上げ、通過を許される。しかし義経が見とがめられたため、弁慶は金剛杖で打ちすえ、無事に通過を許される。
という話で、歌舞伎では「勧進帳」に仕立てられています。その勧進帳の一節に、東大寺建立のいわれで、聖武天皇は最愛の夫人をなくし、その悲しみが元で盧舎那仏を建立すると述べられます。この最愛の夫人は光明皇后で、天皇崩御の後も生存されていることで、歴史的事実と相反する。これはどういうことかということで、中世的な理解であろうということが書いてあります。東大寺大仏之縁起の中には聖武天皇を聖徳太子の生まれ変わりとする説もあるとのことです。「聖」の文字つながりで関連するかもと考えられるとは思いますが、聖武天皇のころから聖徳太子の神格化があったかもしれません。こんなことがありうるのか、ちょっと信じられないことですが、中世的な理解の上に現在の聖徳太子もあるということです。今の時代で言えばサンタクロースのような人かと思うようになりました。サンタクロースはいないのだとムキになって言う人はどうかと思われます。クリスマスのプレゼントと言ってる中で、サンタクロースは居ないんだよと冷めた発言はしにくいです。聖徳太子も、日本書紀が出来たときからサンタクロースのような皆が共通認識を持つような人だったかもしれません。法隆寺も古い形式の建物ですが、実際は案外新しく、古い様式を模したものであったかもしれません。その時からの伝説であり、倭国から日本へ変るときに象徴的な人物が必要とされたのかもしれませんが、まだ納得のいくものではありません。

2019年5月18日土曜日

スサノオは天武天皇か?

 日本書紀が天武天皇の意向のもとに編纂されたということになっています。このブログでは、持統天皇が天照大神だったということを言ってます。天武天皇はどうなっているのだということをあまり考えていませんでした。うっすらとはスサノオがそうではなかろうかと思ってましたが、だんだん確信してくるようになってきました。
 天智天皇と天武天皇の対立があり、天武天皇の系列の天皇は排除されていったということです。実際は天武天皇と持統天皇の間の争いであったと思われます。スサノオを貶めているようなところもあり、神話ではアマテラスにより、スサノオは出雲に追いやられます。これはヤマトの勢力が出雲を侵略していったことに対応していると思いました。以前の記事で

スサノオが出雲に降ったところ

がありますが、図の①にスサノオが降り立ったということです。つまりこの時は安田の地名が残っている地域(広島県)から出雲へ進出していったので、時期としては7世紀後半、ヤマトの勢力(天武天皇)が進出した事実が神話化されたといえます。

2019年5月14日火曜日

縄文人の起源のニュース

縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析

が日経新聞に出ていました。ほかの新聞でも載っていると思います。
礼文島で発見された縄文人女性のDNAを解析の話です。
現代の日本人で縄文人のゲノムを受けついでいる比率がちがうとのことです。
本州の人で約10パーセント、北海道のアイヌの人約7割、沖縄県の人約3割
ということが書いてあります。
古い時代ではなく、7世紀の日本の状況が反映しているのではと思いました。

2019年5月11日土曜日

後七日御修法

4月28日、9:00-9:45,日曜美術館で「京都の大宇宙 東寺」で放送されていました。京都・五重塔で有名な東寺。1200年続く神秘の祈り!日本で生きる全ての人と関わる“秘儀”を8Kで初めて撮影。さらに空海×生命科学で見えてくる壮大な仏の宇宙とは?との宣伝文句です。
 放送を見て、後七日御修法は、天皇の身体安穏と国家の安泰・繁栄を祈って行われる重要な儀式に納得します。仏教の儀式というより、神仏習合の時代の儀式に思えます。荘厳な儀式が今も行われていることに驚きます。NHKでは1200年続いたと言っていて、連続したかのように感じてしまいましたが、途中に中断があり、また最初は宮中において行われていたものが、東寺に移されたということのようです。東寺への移行が明治維新後ということは、神仏分離で宮中では問題となり、廃絶させるのはどうかということで存続したと思います。明治の廃仏毀釈運動があった中でよく残されたなと思いました。
 少なくとも空海の時代以降、神仏習合の時代であり、この時代が明治維新まで続くことを理解していませんでした。おそらく今まで、明治維新後の皇国史観にとらわれた偏見で、江戸時代以前を見ていたと思います。なかなか皇国史観から抜けられないでしょうが、意識したいものです。

ネットで調べると
「後七日御修法(ごしちにちみほ)」とありましたが、
・平凡社/世界大百科事典 第2版の解説
  ごしちにちみしゅほう【後七日御修法】
・日本大百科全書(ニッポニカ)
  後七日御修法、ごしちにちのみしほ
で読みが少し違います。
 また、最初の年も少し違うようです。
・世界大百科では、
834年(承和1)空海が勅命により大内裏中務省において始行し,同年空海が上奏,唐の例にならって宮中に真言院が造立された。翌年から恒例として宮中御斎会と並んで行われるようになり,東寺一の長者が導師を勤めた。
・日本大百科では
835年(承和2)空海の奏請(そうせい)で中国唐の風習に模して設けられた。金胎(こんたい)(金剛界(こんごうかい)、胎蔵界(たいぞうかい))両部の法を隔年交互に勤修(ごんしゅう)した。室町末期に一度中止されたが、江戸初期に復興した。明治維新後は東寺(教王護国寺)に移行され、現在も真言宗十八本山が集まって東寺灌頂院(かんじょういん)で営まれる。
とあります。

 

2019年5月7日火曜日

服部の名前の地域分布

 地名として残っているところが前の記事でした。
   服部の名前

 昔に調べていたのを思い出しました。県別の分布が以下のものです。
話が少し違っています。考えられることは、
服部の元は岡山県にあって、奈良時代に東方向に人が移動したと
妄想できます。断定はできませんが。