最近、修験道に興味を持っていて、中世の時代に山伏が全国を移動していたことも重要なのではという気がしています。謡曲入門、伊藤正義著、講談社学術文庫の最初の方の「安宅」からです。
源義経が奥州に山伏に姿を変え逃れるとき、安宅の関で、弁慶が東大寺復興の勧進の山伏であると偽り、経巻を広げ、勧進の趣旨を即座に読み上げ、通過を許される。しかし義経が見とがめられたため、弁慶は金剛杖で打ちすえ、無事に通過を許される。
という話で、歌舞伎では「勧進帳」に仕立てられています。その勧進帳の一節に、東大寺建立のいわれで、聖武天皇は最愛の夫人をなくし、その悲しみが元で盧舎那仏を建立すると述べられます。この最愛の夫人は光明皇后で、天皇崩御の後も生存されていることで、歴史的事実と相反する。これはどういうことかということで、中世的な理解であろうということが書いてあります。東大寺大仏之縁起の中には聖武天皇を聖徳太子の生まれ変わりとする説もあるとのことです。「聖」の文字つながりで関連するかもと考えられるとは思いますが、聖武天皇のころから聖徳太子の神格化があったかもしれません。こんなことがありうるのか、ちょっと信じられないことですが、中世的な理解の上に現在の聖徳太子もあるということです。今の時代で言えばサンタクロースのような人かと思うようになりました。サンタクロースはいないのだとムキになって言う人はどうかと思われます。クリスマスのプレゼントと言ってる中で、サンタクロースは居ないんだよと冷めた発言はしにくいです。聖徳太子も、日本書紀が出来たときからサンタクロースのような皆が共通認識を持つような人だったかもしれません。法隆寺も古い形式の建物ですが、実際は案外新しく、古い様式を模したものであったかもしれません。その時からの伝説であり、倭国から日本へ変るときに象徴的な人物が必要とされたのかもしれませんが、まだ納得のいくものではありません。
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