『ペルシア帝国』、青木健、株式会社講談社、二〇二〇年八月二〇日 に唐とペルシアの関係の記述がありました。ペルシャではなくペルシアです。
サーサーン朝の滅亡に対して、政治的基盤をなしていた大貴族の対応は
①イスラーム教徒支配に順応していったパターン
②徹底抗戦して滅んでいったパターン
③唐王朝に亡命していったパターン
にほぼ等分されるとあります。338頁に唐王朝への亡命についてかかれています。
サーサーン家の亡命
マスゥーディーに拠れば、ヤザドギルド三世には、長男ヴァフラーム、次男ペーローズ、他三名の女子が居たと伝わる。また、ヘルツフェルトに拠れば、ペーローズは六三六年生まれだとされる。このペーローズの生涯については、『旧唐書』と『新唐書』に記載がある。 後者に拠ると、ペーローズは、バクトリア地方、スィースターン州などでアラブ人イスラーム教徒軍に抗戦を続けたものの、所期の成果は得られなかった。六六一年には、唐王朝に救援を要請し、六六二年に高宗から「波斯王」の称号を授けられている。だが、とうとう拠点を維持できなくなり、六七三年~六七五年に長安へ亡命して、ここで高宗から「右武衛将軍」に任命された。六七七年には、長安に「波斯寺」を創建しているが、現在西安市内で知られている六つの拝火神殿跡(遺跡などは何も残っていない)のどれにあたるかは不明である。・・・彼は、六七九年に四一歳で(ヘルツフェルトが正しければだが)没した。・・・ ペーローズの息子のナルセフは、六七九年頃、サーサーン朝再建のために、裴行倹(六一九年~六八二年)に付き添われて中央アジアへ出撃した。・・・ナルセフは、七〇七年から七〇九年に長安に帰還し、唐王朝から「左威衛将軍」に任命されたものの、ほどなくして病没し、サーサーン家の正統後継者は絶えた。
スーレーン家の長安亡命
アルシャク朝時代からサーサーン朝中期までは、帝国随一の名門とされたスーレーン家であったが、サーサーン朝後期にはすっかり衰退してしまい、アラブ人イスラーム教徒に対する華々しい抵抗も伝えられていない。しかし、八七四年に長安で死去した「左神策軍散兵 馬使蘇諒妻馬」という人物の漢文・中世ペルシア語併用墓碑が残存している。一九六四年に伊藤義教氏が中世ペルシア碑文を解読したところでは、・・・、スーレーン家の娘の墓誌であると判明した。
六六三年が白村江の戦い、六七二年が壬申の乱です。微妙な時期にあります。唐と日本のつながりの中にペルシャが無関係とは言えないように思われます。「波斯王」ですが、「波斯」が本当にペルシャのことかと思ってましたが、そうらしいことがわかりました。また「波斯寺」ですが、寺は仏教が当然のように思っていましたが、そうではなさそうだということもあらためて認識しました。日本の寺も、白鳳時代の寺は仏教とは限らずに、ひょっとして拝火教的な寺もあったかもしれません。特に天武天皇の時代の川原寺とかあやしいと思われます。読経も仏典ではなく、それぞれの宗教に対応していたものであった可能性があります。白鳳寺院とかの仏像とあるのも本当に仏といってよいのかという気がします。
以前の記事にも関連したものがありました。
追記:R030313、波斯古寺について
『ユーラシア文明とシルクロード』、児島健次郎・山田勝久・森谷公俊、雄山閣、平成28年6月25日発行の本に波斯古寺について書かれています。日本でも混乱があったかもしれません。
西方からの文化とともに長安の街を活気づけたのは、西方宗教の伝来であった。まず、貞観五年(六三一)に祆教(ゾロアスター教)が、貞観九年(六三五)に景教(キリスト教ネストリウス派)が、嗣聖一一年(六九四)にマニ教が伝わる。・・・
中国人は、火の神を拝する信仰について、どのような名称をつければよいかわからず、示偏に天を付して祆教と呼び、金堂を祆祠と名付け、彼らの出身地から波斯古寺といった。
いっぽう、キリスト教ネストリウス派の人たちもペルシアからやってきたので波斯古寺と呼んだ。ネストリウス派は、キリストの神性やマリア聖母説を否定したため、四三一年に開かれたエフェソスの宗教会議で異端とされ迫害を受けた一派である。中国ではネストリウス派と祆教の間に混乱がおき、玄宗は天宝四年(七四五)にこの一派を「大秦寺(だいしんじ)」とする勅令を出した。大秦とはローマのことで中国では景教という名が用いられた。・・・
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