彦根の隣・米原に残る七夕伝説?があり、以前にどうだろうと思っていました。以前のブログで何か書いてるかと探しましたが無いようです。
滋賀県米原市の琵琶湖岸付近に「七夕伝説」の残る地域がある。「天野川」という名の川をはさんで、「彦星塚」と呼ばれる石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、「七夕石」と言い伝えられる自然石が、それぞれ両岸の神社に祭られている。天文研究者は「天野川を『天の川』に見立て、彦星塚を牽牛星のアルタイルに、七夕石を織女星のベガとして配置したのではないか」と指摘。13日には、七夕石のある蛭子(ひるこ)神社(同市世継)で短冊祈願祭が営まれる。 彦星塚は、天野川左岸の朝妻神社(同市朝妻筑摩)にある高さ約1・9メートルの石造宝篋印塔。七夕石は、右岸の蛭子神社にある高さ60センチほどの自然石をそのまま置いたとみられる石塚。2つは、川をはさんで約500メートルの距離にある。
蛭子神社に残る縁起によると、蛭子神社がかつて「世継神社」と呼ばれていた頃の祭神は雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)。平安時代初期に興福寺の僧が2人を合祀したとある。また、彦星塚を星川稚宮皇子の墓、七夕石を朝嬬皇女の墓とする言い伝えもあり、天野川という川の名前などもあって、この地に七夕伝説が生まれた。
七夕伝説残る近江・米原の「天野川」両岸に彦星と織姫祭る神社。13日に短冊祈願祭
石造宝篋印塔は鎌倉時代以降のものですのでそれほど古くはありません。しかし七夕伝説に意味があるのだろうと思っていました。
最近、以下の本を見ていきさつを知りました。『椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) 新書』、馬部隆弘、中央公論新社 (2020/3/17) 182頁からです。
世継の七夕伝説
『米原町史』に中世史料として収録される「筑摩大神之紀」は、滋賀県米原市朝妻筑摩の筑摩神社に伝わっている。永禄一〇年(一五六七)に奈良春日若宮の神主がまとめた筑摩神社の社伝を、天正九年(一五八一)に椿井懐義が写し、さらに文化一〇年(一八一三)に椿井政隆が再度写したという体裁をとる。
これと一連で偽作されたものとして、すでに第二章で触れた「筑摩社並七ヶ寺之絵図」も存在する。これは、入江内湖における筑摩村と磯村の漁業権をめぐる対立を背景として、筑摩村が有利になるように中世の筑摩村を誇張して描いたものであった。
さらに椿井政隆は、筑摩村以外の村々にも自身が作成したものを浸透させるため、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」と関連づけながら様々な仕掛けをしている。例えば、周辺諸村に「七ヶ寺」を設けることで、各寺に関する椿井文書はそれぞれの村に受け入れやすくなる。『近江町史』の口絵に掲載される宇賀野村の「富永山歓喜光寺絵図」はその典型で、そこには「筑摩七箇寺随一」との位置づけもなされている[図3]。
また、湖北は彼がこだわりを持っていた息長氏の出自の地なので、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」では近世に朝妻川とも天の川とも呼ばれていた川に「息長川」の名称を与えている。そのほか、音が通じる「朝嬬皇女墳」を朝妻川沿いの世継村に設置する。さらにその対岸にあたる。 朝妻村には「星河稚宮《ほしかわのわかみや》皇子墳」を設置している。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、七夕伝説と重ね合わせようとしたのである。
享保一九年(一七三四)成立の『近江輿地志略』には、「朝妻川」あるいは「天川」とみえるが七夕に関する記述はなく、蛭子神社にあたる世継神社も祭神不詳とされる。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は写本も多くみられ、当地に早くから根付いていた。そのため、現在は旧世継村の蛭子神社にある自然石が「七夕石」、旧朝妻村の朝妻神社にある石塔が「彦星塚」と呼ばれるに至っている。「筑摩社並七ヶ寺之絵図」に描かれる墳墓は実在しないため、いつしか境内にあった適当なものを代わりにあてるようになったのであろう。
問題はこれにとどまらなかった。『近江町史』編纂に伴う史料調査で、蛭子神社から天正一五年(一五八七)に「世継六右衛門定明」が記したとされる「世継神社縁起之事」と題したも のが発見されたのである(近江町は合併して現在米原市)。昭和六二年(一九八七)九月四日の 『中日新聞』(滋賀版朝刊)と同月七日の『毎日新聞』(滋賀版朝刊)の記事では、「星河稚宮皇子」と「朝嬬皇女」の悲恋を知った興福寺の僧が二人を偲んで合祀したのが七夕の由来になったという「世継神社縁起之事」の内容を報じている。とりわけ『中日新聞』の表題は、「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」と衝撃的である。しかし、椿井政隆が神社の縁起を作成する際に用いる独特の明朝体で記されており(図2参照)、「息長川」の名称も登場することから、発見されたものは椿井文書とみて間違いない。
さらに、平成一〇年(一九九八)度から平成一五年度にかけて、滋賀県立大学は「筑摩社並七ヶ寺之絵図」を参照しながら尚江千軒遺跡の調査を行い、平成一六年にその成果を公刊した。 平成二二年三月一日にはその調査を踏まえたシンポジウムが米原市教育委員会の主催で開催され、同時に「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の展示も行われた。こうして「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は、当地において広く市民権を得るようになった。
それ以降、蛭子神社が所蔵する「筑摩社並七ヶ寺之絵図」の写と「世継神社縁起之事」に基づく七夕伝説が、盛んに語られるようになっている。毎年夏になると、この二つの椿井文書を用いて、古くから地元に伝わる伝説として地元の小学生に解説する様子が新聞の記事となっている。その実態は表5のとおりである。大人が勝手に楽しむ分には構わないが、子供にすり込むのは教育上いかがなものかと思われる。
図や新聞記事の表は省略しています。
220頁にも
そのほか枚方市から交野市にかけては、七夕伝説なるものも広まりつつある。・・・
七夕伝説も古代から何らかのつながりがあると思い込んでましたが、問題だったと思いました。いろいろと遠回りをしてます。この本では椿井文書は、大和・山城・河内・伊賀・摂津・近江に及ぶらしく注意が必要とのことです。
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