2022年3月14日月曜日

乙巳の変と長屋王の変

乙巳の変と長屋王の変が似ているとの話です。

乙巳の変

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変である。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。蘇我入鹿が殺害された事件を「大化の改新」と言う場合もあるが、厳密には政変「乙巳の変」に始まる一連の政治制度改革が「大化の改新」であり、「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階である(ウィキペディア)。

長屋王の変

長屋王の変(ながやおうのへん)は、奈良時代初期の神亀6年(729年)2月に起きた政変。藤原氏による、皇親の大官である長屋王の排斥事件とされている(ウィキペディア)。

ウィキペディアの長屋王の変のその後ということで十年後のことが書いています。

事件から十年ほどたった天平10年(738年)の秋、左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫が、上記の長屋王の誣告者である右兵庫頭外従五位下の中臣宮処東人を刀で斬り殺す、という事件があった。子虫は当初長屋王に仕えていて、すごぶる厚遇を受けていた。この時、たまたま東人と相並ぶ官司(左兵庫と右兵庫)に任命されていた。政事の間にともに囲碁をしていた(当時、官人や僧侶の間で囲碁はよく行われており、正倉院にも東大寺献物帳所載の木画紫檀棊局などが現存している[43])。話が長屋王のことに及んだので、憤って罵り、遂には剣を抜き、斬り殺してしまった。
『続日本紀』は「誣告」という語を用いており(闘訟律40条逸文には、謀反および大逆を誣告したものは斬刑であるとの記述がある[44])、長屋王の事件が『続紀』編纂の時代には冤罪であることが公然のものになっていた、ということである[45]。

乙巳の変は、蘇我入鹿は天皇同然のふるまいに対し、中大兄皇子・中臣鎌足たちが鉄槌を下したという事件です。長屋王の変も、臣下である長屋王が天皇同然のふるまいになったので、藤原氏が立ち上がって制裁を加えたということだと思います(藤原氏側から見て)。私は乙巳の変があるので、長屋王の変も正当化されると藤原氏が考えたと思っていましたが、疑問に思うようになりました。長屋王の変当時において認められていなかったのではということです。つまり、長屋王の変を正当化するために乙巳の変を付け加えられたと考えられます。時系列では考えられませんが、時間を経れば、長屋王の変の不当性が軽減されると藤原氏は思っていたかもしれません。

『日本書紀』で考えると、
最初から孝徳天皇の大化の改新が記述されていた。そこに、乙巳の変をあとから付け加えた。従って、乙巳の変から大化の改新への移行が不自然になってしまったと思います。

この考え方では、『日本書紀』完成が720年(養老4)です。長屋王の変が729年です。 長屋王が、自分の政変につながる乙巳の変を認めるであろうかと思います。藤原不比等であっても、養老律令の編纂など律令体制という法治国家を目指しているので、聖徳太子の話には関与したと思いますが、クーデター的な物は認めなかったのではと想像されます。

長屋王の変のあとに、『日本書紀』が書き換えられ、乙巳の変が追加された可能性はあります。

舎人親王(とねりしんのう)ですが、『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上した人です。

藤原氏の勢力拡大を認める一方で、長屋王の変の2か月後「舎人親王が朝庁に参入する時、諸司は之(親王)の為に座を下りることなかれ」[7]という太政官処分を受けた。この処遇については「長屋王の変の連座」「藤原氏による長屋王に続く皇親勢力の抑制策」など長屋王の変の影響が考えられる(ウィキペディア)。

この時期が、『日本書紀』改ざんにつながってるかもしれません。

乙巳の変の影響 と話が違ってきました。 

0 件のコメント:

コメントを投稿