『秋田城と元慶の乱: 外からの視点でみる古代秋田の歴史 (東北古代史叢書 1) 』 高志書院 (2021/6/10)
秋田城のことなど詳しく述べられています。ほとんど見ていませんが、メモ書きです。 『日本書紀』斉明元年(六五五)七月条、津軽蝦夷の朝貢記事があるとのことです。
『日本書紀』斉明四年四月条に、阿倍比羅夫の記事
などから、この本では(37頁)
七世紀後半の斉明朝に実施された阿倍比羅夫の北方遠征は津軽蝦夷の服属を契機とするものと考えられ、倭王権はその仲介によって北方日本海地域をネットワークとはじめて接触し、そのネットワークで結びついていた北方蝦夷集団、さらには粛慎をも服属させることに成功する。ところが、これまでほとんど注目されてこなかったが、その立役者である津軽蝦夷は、斉明朝以降は来朝記事がとだえてしまうという事実がある。
これから、白村江の戦い以降、倭王権の混乱により、津軽蝦夷との交流が中断したことが考えられます。蝦夷側からの倭王権の様子を知ることができるかもしれません。
蝦夷征討・粛慎討伐(ウィキペディア)
斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった[7]。また、渡島をはじめ、日本書記に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。
阿倍比羅夫は(ウィキペディア)
阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、渡嶋を比定する決定的な史料はなく諸説あるが、東北以北にて粛慎と交戦した。
しかし、その後、白村江の戦いが起こります。
天智天皇元年(662年)8月に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器や食糧を送った(この時の冠位は大花下)。しかし、翌天智天皇2年(663年)新羅と唐の連合軍に敗れる(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。
天智天皇3年(664年)新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上に叙せられる。またこの頃、筑紫大宰帥に任ぜられている(『続日本紀』)[18]。白村江の戦いののち、唐や新羅の来襲に備え、軍事経験豊かな比羅夫を九州地方の防衛責任者に任じたものと想定される。(ここもウィキペディア)
阿倍比羅夫が蝦夷征討のあと、百済救援のために朝鮮半島に向かったりです。どこまで信用できるかわかりませんが、白村江の戦いがある程度想定される中で、蝦夷を味方につけることを考えての行動であったのかもしれません。その後の敗戦で、蝦夷との交渉が途絶えたこともあり得ます。『日本書紀』編纂の時期には蝦夷征討が行われているので、状況の大きな変化があったと思えます。
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