NHKの英雄たちの選択「鑑真来日 秘められた真相」の再放送がありました。
鑑真を招かなければいけなかった理由はなんだったのか?最新の研究をもとに、聖武天皇の目的と鑑真来日の意味を探る。
とのことです。則天武后と同様にして、鑑真に、聖武天皇(上皇)、孝謙天皇、光明皇后らの菩薩戒を求めたようなことが放送されてました。当時の聖武天皇の立場が弱く、仏教に頼ったということです。この方針は、藤原不比等の関与が疑われる『日本書紀』にも聖徳太子の仏教信仰的な記事を盛り込んでいたりして、藤原氏の方針であると思われます。 天照大神も則天武后との対比で考えられ、「書紀」に神仏争いが出てくるのも、この時代の政治状況を示しています。
ウィキペディアの鑑真の項に
753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、 清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を乗船させた。
天平勝宝5年(753)11月16日に四船が同時に出航する。第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着。第三船はすでに前日20日に到着していた。第四船は不明。
沖縄に到着した三船は約半月間滞在し、天平勝宝5年(753)12月6日に南風(はえ・ぱいかじ)を得て、三船共に沖縄を発して多禰嶋(多禰国〈種子島・屋久島〉)を目指して向けて出港する。
出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁、第二・三船はそのまま日本を目指した。第一船はベトナム北部に漂着し、後ちに唐に戻る。
大使・藤原清河と阿倍仲麻呂がどうして唐にもどったか、いきさつはわかりませんが、鑑真の来日に清河(藤原氏)が関与していると思います。藤原清河は日本に戻れなかったようですが、藤原氏繁栄への役割は果たしています。
以前に、以下の記事を書いてました。
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