祭政一致とは、祭祀と政治とが一体化していること。祭政一致の祭は、「まつり」であり宗教を意味する。政は「まつりごと」、政治を意味する。ということです。
古い原始時代のことに思っていましたがそうでもないような気がしてきました。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月を見ています。
この本の第2章に梁の武帝(在位五〇二~五四九)が信仰心から菩薩戒を受けていて、捨身(帝位を退く)→涅槃業解説→還御(帝位に戻る)→大赦・改元をして、仏教による国家の結集を図ったという、高度に政治的な行為であったという(p。55)。周辺諸国は、中国に対し、仏教を活かした朝貢を行なうということである(p。57)。というようなことが書かれています。これは、仏教による祭政一致であろうと思われます。ということは、日本での仏教公伝というものも、単なる宗教の伝播ではなく政治体制に直結した仏教による同盟国家生成のものであったことが考えられます。
六〇〇年の遣隋使の時には日本側には仏教の雰囲気はありません。隋書東夷伝、倭国条には
「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、跏趺《かふ》して座し、日が昇ると政務を停め、『我が弟にゆだねよう』と言っております」と説明し、高祖(文帝)は「たいへん義理(道理)のないことである」と言ったとのことである。この本には、日中でやりとりに誤解があったかもしれないが、仏教色は希薄であると書いてあります(p.69)。この時代(七世紀まで)の日本が原始宗教的であるように思われ、仏教公伝が五三八年とか五五二年とかにあったとは考えられません。
六〇七年の遣隋使には仏教を受容するものになったようです。ここで、鴻臚卿(鴻臚寺の長官。寺だが、外国使節の接待および朝貢などをつかさどった役所のこと)が出てきますが(p.76)、「寺=役所」であれば、これは仏教を取り込んだ祭政一致の社会のような気がします。
孝謙天皇の時の遣唐使では、鑑真を招き、聖武太上天皇・光明皇大后・孝謙天皇たちは菩薩戒を受けている。3人の受戒は、唐の皇帝たちが、鑑真の師匠筋の僧侶から菩薩戒を受けたことを先例とするとあります(P.162)。日本でも、祭政一致が完全に仏教に変化しています。
平安時代に、神仏習合というものが現れますが、これは遣唐使を廃止し、唐の影響が小さくなってから段々と広がっていったことに対応していて、「唐の支配=仏教の支配」が神道派の盛り返しで、成立しなくなったと考えられるのかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿