乙巳の変により孝徳天皇が即位し、大化二年(646)、改新の詔が発せられた。その中に国司・郡司を設置とある。ところが、発見された木簡では郡ではなく、評であった。書紀の述べることと異なっている。これは、郡と評が並列的に存在したとしておかしいというのでは無く、時代的に異なるとのようである。
以下の本にあったので、抜書きすると、
郡評論争に決着をつけたのは
藤原宮跡(奈良県橿原市)から出土した木簡であった。文武四年(700)以前の木簡にはすべて「評」と記され、大宝元年(701)以降の木簡には「郡」と記されていた。つまり、大宝律令を境に「評」から「郡」に変わったことが明らかになった。
とある。『日本書紀』では、天地開闢以来続くと主張している文武朝の正統性を、中国の唐に示したいとしているので、制度の変更により政権が変わったと誤解させることを嫌ったと考えられる。逆に言えば、孝徳朝は、文武朝とは全く別物であることを隠したいと考えていたことが考えられる。
『日本史の論点』、第1章古代論点3、「大化改新はあったのか、なかったのか」、
倉本一宏、中公新書2500、2018年8月
上記の本では、大化改新の主導者を中大兄皇子や中臣鎌足としている。孝徳天皇は軽王という呼ばれ、名前の「軽い」イメージで、重要ではない人物のように記述している。日本書紀の印象操作のようにも思えてくる。上記の本でも、父も祖父も即位したわけではない三世王にすぎない。と書いてある。しかしこれも『日本書紀』の作為に思えてくる。大化改新の事業は、乙巳の変で突然出てきたものではなく、ある程度の長期的な計画に基づいていたはずで、孝徳天皇が即位するにあたって、例えば前期難波宮のそれまでのものとは隔絶した宮城が出てくることなど、連続性を持った政治権力であると考えるべきであろうと思われる。傀儡政権的なもので改新政治が行なわれることがあるのかという気がする。何が言いたいかというと、孝徳天皇の父の茅渟王がどのような人物か、『日本書紀』では良くわからないが、業績が隠されているのではと思われる。証拠はないが、遣隋使の返使が、男子王にあったとされているのが推古天皇であったことになっている。私は推古天皇は存在しないとしているので、この時の王が茅渟王か又は彼に近い人物であった可能性を考えられると思う。『日本書紀』では孝徳天皇を改革の関係者に持ってきたが、その元となる茅渟王には触れたくなかったと考えても話として成立するように思う。乙巳の変から大化改新への流れが不自然なのが解決出来るようにも思う。「思う」が連続してるが現時点では思いつきなので仕方がないとは思う。
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