2020年3月27日金曜日

大宝二年の中国と日本

 大宝二年の遣唐使というのは正確ではないとのことです。当時、中国の王朝名が唐から周に変わっており、中国唯一の女性皇帝、則天武后(在位六九〇~七〇五)に使者達は驚愕したという(『続日本紀』慶雲元年七月甲申条)。
『古代日中関係史』、河上麻由子、中公新書2533、2019年3月、一三五頁ぐらいからを見ています。
 遣唐使が則天武后に国号を「日本」と改めたい願い出て、それを許可されたとある。この日本の意味であるが、かっては太陽の昇るところを意味し、唐に対する対等ないしは超越を主張したとの通説があった。それが当時の唐では中国から見た極東を示す言葉にすぎず、この「日本」は、中国の世界観を受け入れることで、唐(大周)の国際秩序に極東から参加する国としての立場を明示する国号であった(東野治之)。これは、多分東野治之「日本国号の研究動向と課題」、(『史料学深訪』岩波書店、二〇一五年、初出二〇一三年にあると思われます。決して唐への対等、優越を示したものではなかった。
ということのようです。
 一四三頁には、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の一代一度の事業としての側面があったと認められてよいのではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣されたとすれば、これはまさしく朝貢国にふさわしい態度である。・・・とあります。
山尾説は、これも多分ですが、
山尾幸久、「遣唐使」(井上光貞ほか編『東アジア世界における日本古代史講座6 日本律令国家と東アジア』学生社、一九八二年)のことだろうと思います。
 則天武后の時代が持統天皇(在位六九〇~六九七)と重なります。『日本書紀』での持統天皇の神格化でアマテラスが生まれたのも、遣唐使の影響を受けたからではという気がします。日本書紀は中国の唐向けということになります。その後も、女性の天皇が多く出てきますが、則天武后の影響が大きく、続いたような気もします。聖武天皇の時代も実際は不安定であって、遣唐使を通じた唐の権威を頼らなければ成立しない時代であったかもしれません。

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