・倭国はもともと男子を王としていた(57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王、107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)。
・70〜80年を経て、倭国内で大乱(国王の座を争う内乱)が発生した。
・争乱は暦年(中国正史で歴年とは平均して8年±数年)続いた。
・邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の一女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。 (ウィキペディア、倭国大乱より)
ということです。令和四年三月、新聞ではウクライナ大乱のニュースが毎日出ています。ウクライナの国だけでなく、ロシア・NATO・アメリカなど世界的な問題です。これを思うと倭国大乱も国内だけの問題かという気がしてきました。
遼東公孫氏の滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が魏の帯方郡に遣使することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。(ウィキペディア、公孫淵)
公孫淵を滅ぼしたのが、魏軍で指揮を執った司馬懿です。これが二百三十四年です。 「死せる孔明生ける仲達を走らす」で有名な人でした。
三国時代、敵対していた蜀と魏の戦いの一つである五丈原の戦いの最中に、蜀の丞相である諸葛亮が病没し、蜀軍は撤退した。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、魏の大将軍である司馬懿は撤退する蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍が反撃の姿勢を見せたため退却した。その事で人々はこれを揶揄して「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」と言った。ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない(吾能料生、不能料死)」と答えたという。(ウィキペディア、「死せる孔明生ける仲達を走らす」)
三国志では、呉の山越討伐があります。呉の山岳地方の異民族の反乱に呉は苦しんでいたということです。また呉は遼東公孫氏ともつながりを求めていたことから倭国にも影響をもたらしたと想像されます。
邪馬台国と狗奴国の戦いのこともあります。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、当時、卑弥弓呼(卑彌弓呼、ひみここ、ひみくこ)が治める狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢[8] を授与。(ウィキペディア、卑弥呼)
狗奴国は呉に応援を頼み、邪馬台国は魏に頼んだのではと考えることができます。邪馬台国が九州にあったとすれば、整合性がとれてきます。邪馬台国畿内説ではかなり考えにくいと思います。
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