2022年2月25日金曜日

乙巳の変の影響

 藤原不比等の日本書紀 にて、乙巳の変が創作されました。

この内容はかなりの問題を持っています。蘇我入鹿が誤っていたとして問答無用で成敗してることになっています。正しければテロ行為であっても許されるということを認めています。『日本書紀』は養老4年(720年)です。天平元年(729)に、長屋王の変が起こります。これは

長屋王が秘かに左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟296頁)

これにより、長屋王および関連する人が自殺しています。問答無用で成敗されています。これはきびしいシステムです。自分では正しいと思っていても、正しくないとされれば上位・下位関係なく殺されるということです。 『続日本紀』天平10年(738年)の秋7月に、これは問題であったということがかいてあります。

ウィキペディアの長屋王の変からの引用です

事件から十年ほどたった天平10年(738年)の秋、左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫が、上記の長屋王の誣告者である右兵庫頭外従五位下の中臣宮処東人を刀で斬り殺す、という事件があった。子虫は当初長屋王に仕えていて、すごぶる厚遇を受けていた。この時、たまたま東人と相並ぶ官司(左兵庫と右兵庫)に任命されていた。政事の間にともに囲碁をしていた(当時、官人や僧侶の間で囲碁はよく行われており、正倉院にも東大寺献物帳所載の木画紫檀棊局などが現存している[43])。話が長屋王のことに及んだので、憤って罵り、遂には剣を抜き、斬り殺してしまった。

『続日本紀』は「誣告」という語を用いており(闘訟律40条逸文には、謀反および大逆を誣告したものは斬刑であるとの記述がある[44])、長屋王の事件が『続紀』編纂の時代には冤罪であることが公然のものになっていた、ということである[45]。

律令体制のためにはテロも辞さないという藤原不比等の意思が反映されているように感じました。

天平元年の4月

舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)。(『続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)』宇治谷 孟301頁)

が気になります。

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