2022年2月7日月曜日

大伴旅人と日本書紀神話

 神武東征の話だけで、大伴旅人が関係してるのかという気がしてきました。

『大伴旅人(309) (人物叢書 新装版)』鉄野 昌弘 、吉川弘文館 (2021/3/10)の中に、養老四年(七二〇)のことがあります。

養老四年二月、隼人が反乱し、大隅国守を殺害する事件が起こった。隼人は、大宝二年にも乱があり、編戸されることに強い抵抗を示していたと思われる。三月、旅人は征隼人持節大将軍となって九州に下った。副将軍が二人(笠御室・巨勢真人)付いているので、軍防令の規定により、一万人以上の兵士が動員されたことがわかる。この任は困難を極めたらしく、同年六月、詔を携えた勅使によって慰問されている。詔は次のように言う。 ・・・省略・・・・ 南九州の暑い夏、何ヶ月も原野を転戦した労苦を「忠勤」としてねぎらわれたのである。なお七月にも再び、将軍旅人以下、船頭に至るまで物を賜うことが行われている。 八月、右大臣藤原不比等が病を得て薨去した。乱はまだ鎮圧されていなかったが、旅人は京に召喚された。不比等薨去にともない、舎人親王(天武天皇皇子)が知太政官事、新田部親王(同)が知五衛及授刀舎人事に就任する。同年十月、旅人は大納言長屋王とともに不比等邸に赴き、太政大臣正一位追贈の勅使となった。

この間、九月には、陸奥国で蝦夷の反乱が報告され、征討軍の人事が行われています。大伴旅人の年表では、この後の動静が不明ですが、

『万葉集』巻九、「高橋虫麻呂歌集」所出の歌・・・(一七五三~四)、(一七八〇~一)に

大伴卿が出てきて、これを大伴旅人とする説があります。蝦夷の反乱は収まってはいますが、バックアップで常陸国にいたということです。

これが正しければ、旅人は、養老年間の後半、文字通り東奔西走だったということになろう。

正史での大伴旅人の初出は

『和銅元年元日、朝賀に際し、正五位上左将軍として、朱雀大路で騎兵を陳列し、隼人・蝦夷らを率いて進んだとされるのが初出である。旅人四六歳。左将軍とは、儀式の時に騎兵を率いる時の将軍名である。左副将軍は穂積老、右将軍は佐伯石湯、右副将軍は小野馬養であった。この年は言うまでもなく、平城京への遷都があり、元明天皇が朝賀を受けた大極殿が平城京のそれか藤原京のそれかには議論がある。

この話から妄想すれば、大伴旅人は若きころから、隼人・蝦夷に対する歴戦の強者であったであろう。とすれば、霊亀元年(七一五)五月に中務卿となる。とあります。これが意味を持ってきます。

前の記事と引用がダブりますが、

中務省は、天皇に近侍して詔勅の起草や伝達、国史の監修などを司り、八省の中でも重要視されていて、中務卿は他省の長官より一階高い正四位上相当官とされていた。従四位上では抜擢といって良いだろう。

神武東征だけでなく、書紀神話全体に関わっているのではと思われます。日本武尊の話など空想物語ですが、リアリティがあります。大伴旅人の体験が神話に取り込まれていると感じました。日本書紀は養老四年(七二〇)です。大伴旅人の若き頃は不明ですが、神話の中に大伴旅人を想像できる部分があるかもしれません。

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