『蝦夷の古代史』、工藤 雅樹、 吉川弘文館 (2019/6/1)
の中に、エミシの名前について
三 強く、恐ろしく、かつ畏敬すべき「エミシ」
「エミシ」という語のもともとの厳密な意味はもはや知りえない。だが、神武紀の歌謡の内容から推し量ると、「エミシ」という語には「強く、恐ろしく、かつ畏敬すべき人たち」というニュアンスがあったと考えられる。「エミシ」を毛人と記すようになった飛鳥時代や奈良時代の中央の有力者のなかにも、蘇我毛人(そがのえみし)(蘇我馬子の子、大化の改新で倒された蘇我入鹿の父で、舒明・皇極朝の大臣(おおおみ))、小野毛人(遣隋使であった小野妹子の子)、佐伯今毛人(東大寺の造営に活躍)など、多くの「エミシ」という名前の人物が存在することからも、もともとは「エミシ」という語は蔑称ではなく、中央貴族の名前としてもふさわしい語義だったことが推測できる。
とあります。書紀の神武紀ですが、大伴旅人の関与が疑われます。時代的に書紀の成立の七二〇年は蝦夷の反乱の時期と重なります。この時には、時節征夷将軍などを朝廷は任命しています。畏敬すべき意味があったとは思えません。毛人であれば、「エミシ」と読んでもニュアンスは違うはずです。藤原宇合という人物ですが、馬養から宇合に改名しています。馬飼とかでも良いと考える人もいたかもしれませんが、嫌う人もいたはずです。毛人も同様で蝦夷とでは全然違うと思います。蝦夷は蔑称であろうと考えると、馬子と入鹿で馬鹿、蘇我倉山田石川麻呂のようなありえない長い名前とかで、乙巳の変は、空想物語であることを示そうと『日本書紀』はしていると考えることが可能になります。
神武紀の歌謡の「エミシ」も、久米歌の後に出てきます。つまり、書紀編纂の時代、蝦夷・隼人の反乱があり、畏敬すべき存在ではなく打倒すべき存在であったはずです。乙巳の変の蘇我蝦夷もそのような人物設定です。実際に、乙巳の変があったと考えれば、この話は成立しないので、何を言ってるのだということになりますが。
明快になってはいませんが、「神武東征」については、書紀編纂の時代をかなり反映しているようです。
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