2013年10月24日木曜日

名字:三井

宇佐神宮の関係で思いついたことです。
上宮の北、菱形池のそばにある「御霊水」、ここに三つの井戸がありました。
神事に使用されるであろう三つの霊験あらたかな井戸の意味で三井の名字になったのかもしれないと思いました。宇佐神宮は、一之御殿、二之御殿、三之御殿であり、祓所の灯籠が三つです(思い違いが無ければ)。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法(三なし)としていて、何かわかりませんが、三を意識しているように感じました。

写真の屋根型の覆いが御霊水の井戸です。三つの井戸が見えます。「三井」発祥の地と思わせる雰囲気です。が、早とちりのようです。
三井の分布図を示します。山梨県が多く、九州はそれほどではありません。思い込みは怖いです。

 
 
ネットで、三井広報委員会のホームページがあり、そこに「三井家発祥の地・松阪」とあります。
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「三井」という姓については、信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、
そこに財宝があったため、これを祝して三井姓に改めたと伝えられている。
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宇佐神宮だけではなく、他の地域にも三つの井戸があったようです。「三つの井戸」説でした。
 
三井といえば、滋賀県大津市に三井寺(みいでら)があります。ウィキペディアでは
この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
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中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。
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新羅善神堂(しんらぜんじんどう、国宝)-三井寺の中心伽藍から北へ500メートルほど離れた場所にある。三井寺の鎮守神である新羅明神を祀る。「堂」と名が付くが、建築様式的には流造(ながれづくり)の神社本殿である。現存の建物は貞和3年(1347年)、足利尊氏の寄進によるもの。新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。
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とあります。新羅神社が各地にあるそうですが、山梨県にもありました。源氏の山梨県への進出で三井寺からの三井という名字が広まったのかもしれません。山梨県付近に三つの井戸があれば、すっきりして良いのですが。

 

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