2021年12月15日水曜日

銅鼓と銅鐸

 銅鼓とは青銅の太鼓です。 銅鼓の説明はウィキペディアにあります。 

『これならわかるベトナムの歴史Q&A』三橋広夫、大月書店 (2005/7/15)に もう少し詳しく説明があります。

一九二四年、北部ベトナムのマー川岸のドンソン村で農民が青銅器の遺物を発見しました。形が太鼓に似ていて、ふたと思われる部分には太陽が描かれ、光が四方八方に飛びちっています。銅の部分には、杵と木臼、高床式の米倉、笛を吹きながら人々が踊っているようすなども生き生きと描かれています。この銅の太鼓を銅鼓(どうこ)と言います。・・・

さらに調査が進み、このような銅鼓が北部ベトナムばかりか、中国南部から東南アジア一帯、ニューギニア島まで分布していることがわかってきました。いまは、中国の雲南省でつくりはじめられた銅鼓の文化がしだいに南下していったと考えられます。・・・

いまでも中国南部や東南アジアの山地の人々は祭りのときに銅鼓を楽器としてうち鳴らすことからすると、おそらく当時も重要な祭祀の時に用いられたのでしょう。・・・

これだけでは、銅鼓がどのように使用されたかわかりません。下記の動画が参考になりました。

銅鼓踊り 田遊び風 

これを見ると、稲刈りの作業を銅鼓を使い、みんなでタイミングを取って行われている様子が祭りとなったことがわかります。笛を吹きながら踊っていたとの理解ですが、刈り取った稲をもっているようにも理解できるかもしれません。銅鼓も側面をぶら下げてたたいていたようです。音の出し方も、円盤状の部分と側面の二カ所をたたいているように見えます。これから銅鐸も農耕祭祀に使われたことを想像できます。 銅鐸を用いた祭祀で、銅鐸が前方にあり、皆がそれに伏し拝むような図を見ますが、どういう根拠があるのか、ちょっと問題有りに思えます。

銅剣を用いた祭祀も、どんなものか不明でしたが、この動画から想像すると、その原初のスタイルは、木の棒を二本でたたいて音を出していたのかと思えます。農耕祭祀ですが、音の出し方が銅剣と銅鐸という違いにあったということで分布の違いを理解できてきます。

問題は、銅鼓から銅鐸へと変化して伝わったとは考えられないことです。銅鼓は円筒状で、銅鐸は扁平です。銅剣も扁平と言えます。大きな断絶があります。

銅鐸のことがわかってないので、銅鐸の本を見ました。 『銅鐸の考古学』、佐原 真、東京大学出版会 (2002/4/1) の中に、「銅鼓の祭り」の説明があります。

銅鐸の時代、中国の南部からベトナムにかけては、銅の太鼓を稲作の祭りに使っていた。種類は違っても、その祭りは、銅鐸の祭りと共通するところがあったと考えられている。太鼓に表された農村風景も弥生の村を想像させる。銅の太鼓の祭りは、現在もなお中国南部やベトナムなどに伝わっている。そして、面白いことに祭りの時以外には、銅の太鼓を土の中に埋め隠している例がある。
これは、銅鐸が土の中に埋めてあることと共通している。

中国南部やインドシナでは、漢代以来、銅鼓を祭りに使った。
錞于(じゅんう)とよぶ戦国時代の太鼓が祖先と考えられている。雲南省石寨山(せきさいざん)の墓からは、銅鼓そのものや銅鼓形の子安貝貯蔵器がみつかった。これには、銅鼓の祭りや戦いの様子、農村風景が表されている。
漢代の中国周辺部の初期農耕文化の所産として、銅鐸と銅鼓は親戚とみてよい、現在まで伝わる銅鼓の祭りは、それを土の中に保管する風習と共に、銅鐸の祭りや埋納を考える上で絶好の比較資料である。

現時点では、中国南部から、朝鮮半島南部または九州西部に稲作文明がパッケージとして伝来したが、銅鼓は製造上の問題かなにかで、銅剣や銅鐸に変化してしまったと考えたいです。

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