呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が出土していると『卑弥呼の時代 (読みなおす日本史)』吉田 晶、吉川弘文館 (2020/4/1)にありました。呉と倭国の関係を示す鏡です。魏と対立する呉は、遼東地域から朝鮮半島に勢力を保持していた公孫氏や高句麗との間に関係を持とうとしていたとあり、
東シナ海を中心に海上を利用して活発な活動を行った呉が、公的に倭国と接触したことを物語る文献上の証拠はまったくない。だが遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡二面が存在する。一つは、山梨県取居原きつね塚古墳出土の赤烏元年(二三八)の紀年銘をもつもので、今ひとつは、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年(二四四)の紀年銘をもつ鏡である。このことは、呉と倭人社会との間になんらかの交通関係が存在したことを物語っている。二面の鏡の存在だけで呉と倭国の公的な交通があったとはいえないが、呉の東シナ海を利用した積極的な海外進出の状況からすると、いつかは倭人社会と接触する可能性のあったことは認めなければならないだろう。 こうした可能性を魏は予測していたとみてよいと思う。ーーー(朝鮮半島との関係などから)ーーー魏としては倭国を是非とも臣属させておく必要があった。卑弥呼に「親魏倭王」という破格の厚遇を与えたのも、これと関連するわけである。
とあります。本の順番とは逆になりますが、
公孫氏政権をめぐる魏と呉の確執が最終的に決着した直後の、景初三年(二三九)六月に邪馬台国と魏の交渉が行われていることにあらためて注目する必要がある。その遣使のタイミングは絶妙でであり、卑弥呼を中心とする倭国の支配層は、右のような(*縦書きでは)東アジアの国際関係とその結果を見究めたうえで、魏への遣使を行ったとみて良いと思う。
のようなこことが記されています。遣隋使の派遣も中国情勢を見ていて決定されたと思われるのと同じで、たまたま偶然にではないということです。呉と倭国の関係の文献はないことに関して、中国三国志で魏が正統とされ、呉とかは諸外国との関係についてのは対象とならずに、記述がないともありました。三国志の世界が離れた日本に影響していたことになります。
ネットで検索すると
呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。
日本で出土する呉の鏡 https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2011-10-16-3
文書からは追えないようですが、呉製の神獣鏡があることから、実際には呉と倭国の間に何らかの関係があったのだろうということは確かです。『日本書紀』が朝鮮半島に偏執していて、その影響を私たちは受けているのかもしれません。
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