神仏分離の前提として神仏習合があったということだと思います。 八坂神社のことを考えると、薬師如来の薬師堂を除いて疫神社とかをもってくるのは納得いきますが、疫病退散の午頭天王は主祭神で本殿です。今は素戔嗚尊が主祭神になってますが、無理があったように思います。明治に神仏分離を行うために、神仏習合をもちだしたのではという気がしてきました。
神仏習合の歴史ですが
仏教は六世紀なかばまでに朝鮮半島から日本に伝来し、在来の神祇信仰(原始神道)との間で摩擦を生じさせながらも、日本各地に徐々に伝播していった。ところが奈良時代の八世紀になると、それまで対等的だった仏と神の間に異変が起こる。神社の境内やその近辺にあえて寺院が建立されるようになったのだ。このように、神社に併設されるようにして建てられた寺院を神宮寺、あるいは別当寺、宮寺などと呼ぶ。そして、伊勢神宮や出雲大社のような、現在では神道の一大聖地のように受け止められている著名な神社にまで神宮寺が設けられたのである。ーー理由が述べられているが省略ーー(『仏教破壊の日本史』古川順弘、株式会社宝島社、22ページ)
日本では、仏教伝来は確かですが、そもそも神道があって、その後に仏教が入ってきて、蘇我・物部の神仏争いがあったことは確かなことではありません。大宝律令などでは神祇官の制度があり、神道を中心としようとしたのは確かであろうと思います。しかし八世紀中には、律令制に基づく「神仏が対等」であることは不可能になったということです。明治の王政復古では古代の律令制に戻そうとのことで、神仏分離を目指すため、神仏習合があったことにした明治時代の神道派の論理のように思います。大まかに言えば、神仏習合というより、仏教の土着化のようなもので、いろいろな神様と仏が合体して、限定的な神様ではなかったということです。神仏習合→神仏分離とはいえなくて、八坂神社の牛頭天王の話だけでなく、修験道とかも明治の神仏分離では無視したということで納得しました。
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