『三輪山の古代史』上野誠 [ほか]編、学生社、2003.3の「3大神神社と出雲」千田稔氏のところにありました。 「大田田根子」については深く考えていませんでした。このタイトルを見て、気がつきました。
崇神紀に、天照大神と倭大国魂の二神をお祀りしていたが、うまくいかなかった。大田田根子を呼んできてまるくおさまったという話があります。大田田根子はどのような人物だろうかということで、この本では詳しく述べられています。私は天照大神は持統天皇のモデルだとは思っていますが、軽く考えていました。崇神天皇と言う架空の時代で、持統天皇と倭大国魂の方が誰に相当するかわかりませんが対立があった。そこに大田何某かがおさめたということです。持統天皇の関係で「大田」と言えば、大田皇女(おおたのひめみこ)が思いつきます。『日本書紀』のいうところでは、持統天皇の姉にあたります。大田皇女がいたら、きちんとできているはずだったという書紀編纂者の願望です。『日本書紀』を読んできて、天照大神は持統天皇のことかなと、思っていますが、違うかもしれないと考える人もいると思います。この部分で「大田」を出すことで、天照大神=持統天皇が確定します。神様の話の中に急に人物名が出てきて、書紀はパロディが好きなのかと感じてしまいます。蘇我馬子と入鹿なども馬鹿馬鹿しいとはいえないです。 倭大国魂は天武天皇を表すのかはわかりません。
この本では、「大田田根子」の探索があります。つまり大田皇女の出自探索ということになります。 大田田根子は大物主の血を引く人物のようです。出雲系の人に思えてきます。大田皇女は以前、吉備の出身と妄想していましたが、違うように感じます。出雲とすれば、話がすっきりします。天武天皇の後継者争いで、大田皇女の子の大津皇子が脱落したことで、もし出雲の勢力と大津皇子が結びついていれば、影響力が減じられることになりますが、よくわかりません。大田皇女の子の大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも)は、天武天皇の皇女が、伊勢斎宮であったのですが、大津皇子事件で退下していて、天武天皇の後継者問題と伊勢神宮問題が関連しているようには思われます。
大田田根子は、「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえのむら)」に住んでいます。現在の和泉地方陶邑です。陶は当時の須恵器の大生産工場があったところです。陶荒田神社があり、ここがかって大阪府泉北郡東陶器村大字大田といったところです。
多太神社の話もありますが、三輪山の麓、巻向のところにも大田というところがあります。かって纏向遺跡は大田遺跡と言ってたようです。
その大田遺跡(纏向遺跡)から出土する土器の年代が、遅く見積もっても四世紀までいくのです。・・・ さらに、大田という地名が大変重要な地名であることが、『播磨風土記』の揖保郡の条に出てくるのです。 「大田の郷。大田と稱ふ所以は、昔、呉の勝(すぐり)、韓国より渡り来て、始め、紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。その後、分かれ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り至りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。是は、本の紀伊の国 の大田を以ちて名と為すなり」。
これらは、和歌山市大田、茨木市大田、揖保郡太子町太田?(大田ではない)と各地にあります。「大田」の名字を追究する意欲のある人であればもっと調べることができるとは思います。しかし、大田皇女は、大阪府泉北郡東陶器村大字大田の出身であろうとは思います。
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