2019年3月1日金曜日

須恵器のルーツ

ウィキペディアを見ての感想です。
和泉の地域に南海ルートを通じて直接に中国江南地域から高温土器生産の技術が伝えられたと考えても良いように思いました。朝鮮半島経由にこだわらなくても良いのではということです。

以下はウィキペディアの須恵器のところからコピペしてます。
・須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。
・須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
・高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。
・考古学的には、大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市・岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群の発掘調査と、森浩一、田辺昭三、中村浩らの一連の編年的研究[4][5][6]により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていたが[7]、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡の「TG232号窯」・「TG231号窯」や、野々井西遺跡の「ON231号窯」において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半段階には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術が招来され、陶邑地域で須恵器生産が開始されたことが明らかとなっている[8]。

0 件のコメント:

コメントを投稿