2019年3月17日日曜日

漢風諡号

 釈日本紀に引用された「私記」に、「師説」として初代神武天皇から41代持統天皇まで、淡海三船の撰とある。とのことで、本当かなと思い、探してみましたが、なかなかわからず、
釈日本紀巻第九の述義五(自第三至第五)第三に
神武天皇。
  私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅撰也。
とありました。「」はレ点のつもりです。他の天皇については残念ながらどう探して良いかわかりません。
 ウィキペディアでは淡海三船について、抜粋すると

天平宝字9月に発生した恵美押勝の乱の際に、孝謙上皇側に加勢。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。
称徳朝では、兵部大輔・侍従を歴任し、天平神護2年(766年)には東山道巡察使に任じられる。しかし、巡察使として名誉や栄達を気にして地方官に対する検察が厳格に過ぎ、特に下野国の国司らの不正行為(正税の未納・官有物の横領)に関して、下野介・弓削薩摩のみに対して外出を禁じて職務に就かせず、さらに薩摩が恩赦を受けたのちにさらに弁舌を振るって罪に問おうとしたことが問題とされ、翌神護景雲元年(767年)6月に巡察使を解任され、8月には大宰少弐に転じている。

とあります。この記述がはっきりしませんが、弓削薩摩が弓削道鏡の一族で、当時は道鏡の後ろ盾があったことが考えられ、神護景雲3年(769年)には、「道鏡に皇位を」という宇佐八幡宮神託事件が起こっています。この部分は割り引いて考える必要があると思われます。
ともかく、光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)の刑部大輔と京官に服し、のち大学頭・文章博士などを歴任して、宝亀11年(780年)従四位下に叙せられている。
とあり、復活します。恵美押勝(藤原仲麻呂)の時代に唐風ということで、天皇名も漢風諡号になったと思われますが、おかげで私にはわかりやすくなりました。
図書館から、続日本紀(中)全現代語訳、宇治谷孟著、講談社学術文庫ののところ、
神護景雲元年(七六七)六月五日に解任の理由がウィキペディアにあるように述べられています。
 下野国の国司らの不正の責任をひとり弓削薩摩に押しつけ公平の原理に背いている。今後はこのようなことがあれば、法に従って処分する。ということが13行もあります。それほどの記事かと思いますが、淡海三船が「続日本紀」編纂の関係者を思わせるようなボリュームになっています。しかし、ウィキペディアを追跡するのは難しいです。

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