2019年3月9日土曜日

日本書紀での森博達著の「日本書紀の謎を解く」の学説について

 正直、α群、β群の話も良くわかりません。「偽りの日本古代史、井上亘著、同成社発行」に解説がありましたが、これでもまだわかりません。沼本克昭氏の上代漢字音の成立過程のまとめが引用されています。同書一〇八頁から、
楽浪文化が栄えた頃、中国上古音が三韓に移植され、四世紀に倭が百済と関係を持つと、渡来人が「古韓音」を伝えた。五世紀に中国が南北に分裂すると、百済は南朝の文化を受容し、倭に「呉音」を伝えた。以後、六世紀を経て推古朝に到るまで倭の文字文化は渡来人が担当し、また百済滅亡に至るまで呉音は主流であり続けた。これを反映して、『古事記』、『万葉集』の仮名は呉音系といわれる。しかし七世紀に入って遣隋使・遣唐使を派遣し、長安の文化を直接受容するようになると、唐代北方音に基づく「漢音」が正音と見なされるようになった。これを反映して、『日本書紀』の仮名は漢音系といわれている。
とのことです。
中国人にも読める正史を作るために漢音が意識されたということのようです。
 理解できるところだけの引用ですが、日本書紀の編纂過程は
①『古事記』序
②『日本書紀』天武十年(六八一)三月
➂『日本書紀』持統五年(六九一)八月
④『続日本紀』和銅七年(七一四)二月
⑤『続日本紀』養老四年(七二〇)五月
 これら確実な史料から一般に『書紀』の編纂は天武朝にはじまり、持統朝でも継続されたが、元明朝の和銅七年になってあらためて国史の編纂が命じられ、元正朝の養老四年に完成したと考えられている。「この引用は坂本太郎『六国史』(吉川弘文館、一九七〇年)より」とのこと。
長屋王の乱(七二九)があり、これで良いかは問題ではあります。
 最終的には、井上氏は、書紀は連綿と続いたものではなく、これとは断絶して、④からはじまり、原史料を大急ぎで切り貼りして巻子本に仕立てた後、全体に渡って添削を加えた。その添削担当者のクセがα群とβ群という形で出たと考えるわけで、巻単位に特徴が出るあり方も、このように考えれば容易に理解できるだろう。
とのことです。
 結論的には、理解できてないので現時点では音韻論は考えないということです。

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