2019年3月28日木曜日

古代祭祀

 今年は新天皇が即位されるとのことなのか、「古代の祭祀と年中行事」という本が出版され図書館にあり、借りてきました。岡田荘司編、吉川弘文館発行です。口絵の写真では天皇陛下が神事の装束を召され、神殿に向かわれる写真などがあり、律令の時代より受け継がれていることに驚きを感じます。
この本の見ているのは、最初の総論で、古墳時代の話を飛ばして、律令国家と祭祀制度のところです。
七世紀、「倭国」から「日本」になる中で連動して、これまでの祭祀が再編成されたとのことです。
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 その一つが神郡(郡)の設置で、神宮の度会・多気郡(伊勢国)、鹿島(香島)神宮の香島郡(常陸国)は、七世紀中頃の孝徳朝に設置され、同時に神宮では祭祀組織を統轄する大宮司が置かれている。その他、安房郡(安房国)、名草郡(紀伊国)、意宇郡(出雲国)、宗像郡(筑前国)も、七世紀後半から八世紀初頭までには、国家的に重要な神々の祭祀を支えるため神郡として設置された。
 神宮の中枢「大宮院」が発掘された孝徳天皇の前期難波宮の中枢部の建築配置と共通することから、宮殿に合わせて神宮が整備されたことが考えられ、この直後、六五〇年代から六六〇年代には、出雲(杵築大社)と香島(鹿島)の祭祀の場は神宮として整備されている。
 また延喜式の祝詞で「前白」とあるのが、「前白」木棺での上申文書の形式と一致しており、祭祀と行政的儀礼(宮廷儀礼)と対応関係がうかがえる。
 七世紀後半、祭祀の場と祭祀は、律令制度に対応した宮殿と儀礼の形に合わせて整備され「神宮・神社」が成立、神郡が設置された。この後、七世紀後半に始まる記紀編集では、神郡に祀る神々は記紀神話の中心的な神格として位置づけられた。そして、列島内各地の主要な祭祀の場も、律令制度に裏付けられた「神社」となっていったと考えられる。
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東アジアの情勢が緊迫し、唐が成立した後、百済や高句麗を滅ぼし、新羅を影響下においたとしても、それだけで、日本の中の各地に存在した地域王国のようなものが簡単にはまとまるとは思われません。やはり、何らかの祭祀儀礼により、ヤマトの勢力が統一していったということだと思います。天武天皇がそのような祭祀儀礼に長けていたことから日本が統一されていったのかもしれません。

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